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あなたに伝えたいことがあります

三つ単語を貰って書いた短い物語です。

「地元」「世界」「味噌」

何故おれはこいつと殴り合っているのだろうか。おれは他人事のように、目の前の黒人に殴られながら、ぼんやりしていた。
「ガード下げるな!右くるぞ、右!」
会長の声で目が覚めた。おれは今、ボクシングの世界タイトルマッチで闘っていたんだ。鬼の形相で迫ってくる相手の攻撃をクリンチしてどうにか逃げた。あと何秒残っているんだ?早くゴングが聞きたかった。このラウンドは相手のいいパンチを貰いすぎてしまった。右目の上がパックリ開いて血が止まらなかった。胃も肝臓もパンパンに腫れ上がって、へそから飛び出てきそうだった。だけど、これは世界戦だ。負けるわけにはいかないのだ。死力を尽くしなんとかダウン寸前でこのラウンドを凌いだ。早くコーナーに戻ってイスに座りたかった。
「会長。水を。水をください」
「おいっ、それ取ってくれ!早くしろっ!」
会長の怒号が薄れゆく意識の中で微かに聞こえた。口の中がズタズタに切れて、血と唾液が混ざりあってネバネバして気持ちが悪かった。
「待たせたな。ほら、口開けな」
言われるがままに口を開けた。会長が一切無駄のない動きでボトルからおれの口いっぱいに注いでくれた。
「会長。これ味噌汁です」
やっぱりこのラウンドのインターバルもボトルの中身は味噌汁だった。煮干しの出汁がよく効いていた。ワカメが喉にひっついてむせた。会長はおれを睨んでいた。
「おい、チャンピオン。おまえ、おれの奥さんとできてんだってなあ。 まったく気がつかなかったよ。馬鹿にしやがって。おまえが好きな喜子の味噌汁だ。しっかり飲みな」
よりによって、何故、夢にまでみた地元での世界タイトルマッチの前日に、喜子さんとの不倫がばれたのだろうか。口の中で味噌汁と血が混ざり合って、なんともいえない味がした。
「しっかり飲み込めよ。ほら、喜子もあそこで見てるんだ。しっかりやってこい!おら、マウスピースだ!」
無気力に広げた口に会長が無理矢理マウスピースを突っ込んできた。まただ。さっきのラウンドより入念にマウスピースの裏には味噌が塗りたくられていた。喜子さん自家製の味噌。口いっぱいに広がる味噌の風味が気になって、前のラウンドより相手のパンチを被弾してしまった。もろに相手の右フックをくらって、マウスピースごと味噌を噴き出してしまった。今まで必死に堪えていたが、遂に我慢できずに噴き出してしまって、相手の身体に味噌をべっとりつけてしまった。万事休す。レフェリーに味噌がバレて試合終了の画が脳裏に浮かんだ。華の故郷凱旋試合でおれは何をやってるんだ。くそったれ。おい。何故だ。何故会場の誰もが味噌にまったく気がつかないんだ。
「何やってんだ!早く戻ってこい!ゴング聞こえねえのか!この野郎!」
千鳥足でコーナーに戻って、味噌まみれの身体のまま椅子に腰を下ろした。
「会長、水ください」
また味噌汁だった。もうだめかもしれない。会長がマウスピースの裏だけでなく、全体に満遍なく味噌を塗りたくっている姿が目に入った。
「もうやめてあげて!」
喜子さんがリングサイドにいた。会長は喜子さんに目もくれずに、マウスピースに味噌を塗りたくっていた。
「男の仕事に女が口出しするんじゃねえ」
「もうやめてあげて!あんたがボクシングボクシングで、全然私にかまってくれないから。だから、私この子を利用して・・・」
「じゃあなんだ。おまえ、こいつのこと全然好きでもなんでもねえのか?」
「私には、いつもあんただけだよ!」
ゴングが鳴った。会長はマウスピースをおれの口に適当に突っ込んで、喜子さんの元へ駆けて行った。二人は抱き合い、リングサイドで激しくキスをしていた。喜子さんと目が合った。何故ウインクをしてくるのだろうか。その時、腹に鈍い痛みが走った。相手のパンチをもろにくらっていた。おれは膝から崩れ落ち、味噌汁をリングに吐き散らかし脱糞した。味噌と糞まみれになったリング上に、真っ白なタオルが投げ込まれた。タオルが投げ込まれた方に目を向けると、会長と喜子さんはまだキスをしていた。
おれはタイトルを失った。今回の一戦は注目度も高く、テレビで生中継されていた。放送後の反響は大きかった。後日、おれはトランクスに印刷されたスポンサーの味噌会社から、半端ではない仕打ちをくらい、ボクシング業界から足を洗わざるを得ない状況に陥った。
喜子さん。おれは今、地元に帰り、家から一歩も出ず、毎日あなたの事を思っています。
喜子さん。あれからうちの食卓には、一度も味噌汁が並ぶことはありません。



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