追いかける女

私はバイト帰りに、ぼんやりと百貨店の透明なショーウィンドウを眺めていた。
しかし、ふいに後ろに立つ影に気付き、体が冷え、息が荒くなり、その場にへたりこみそうになった。

ゆっくりと空気を肺に溜め込み、それら全てを吐き出して、気持ちを落ち着かせると、かたい地面を汚れたスニーカーで踏みしめ、足早にその場を立ち去る。

まさか彼女にこんな場所で遭遇するとは思ってもいなかったため、動揺で魂の芯が冷え、同時に身体の表面が熱を持ち、爆発し、砕け散りそうになった。

彼女はここのところ、執拗に私を尾行してくる。
実は、彼女の正体を、私は知っているのだ。
コバヤシミアという女。
左の唇の下にある大きな黒子が特徴的だ。

唐突な告白をするが‥‥‥私は小学生の頃、まだ園児だったコバヤシミアの妹を、殺害してしまった事があるのだ。

当時唯一の友人だったコバヤシミアの家に遊びに行った時、彼女がお手洗いに行っている間に、私はコバヤシミアの妹の背を押し、アパートの5階から突き落とした。

別段コバヤシミアの妹が憎かったとか、そういう訳ではない。
ちょっとした悪戯心だった。
彼女のふっくらとした美味しそうな頬とゆらゆら危なっかしい、その足取りを見ているうちに、あ、押してみたい、と思った。

押してはいけない非常用のボタンをつい押してしまいたくなるような、そんな気持ちが湧き上がってきたのだ。

彼女がびっくりしている様を想像すると、喉の奥の方から笑いが込み上げてきて、耳の奥がキンと鳴った。
少しふざけたに過ぎない。彼女に対して殺意はなかった。
それは、はっきりとしている。

私がとん、と彼女の背を押すと、もう名前も失念してしまったコバヤシミアの妹は小首をかしげ、こちらを透明な丸い瞳で見据え、ふわり地面に、落下した。

私がひい、と悲鳴を上げると、お手洗いから戻ってきたコバヤシミアは、

「どうしたの?」

と怯えた野良犬のようにこちらをおずおずと見つめた。
そして、私が

「あの子が窓の外に身を乗り出して落ちちゃったの」

と指さした窓の下を見やると、ぎゃあ、と絶叫して泣き叫び、台所で夕飯の準備をしていた彼女の母親を、ぱたぱたと足音を立てて呼びに行った。

それからの記憶は曖昧だが、コバヤシミアの悲痛な泣き声と、落下する直前の彼女の妹の瞳の色は、いまだに脳裏に焼き付いて離れない。

幸いなことにコバヤシミアの妹は、事故で亡くなったということで処理され、私の殺人行為は露呈しなかった。

コバヤシミアとはそれから疎遠になった。
何らかのきっかけで、私の犯した罪がバレてしまうことを、恐れていたのだ。

その後引っ越したコバヤシミアの家庭は崩壊し、彼女は精神疾患を患ったという噂を聞いた。

コバヤシミアが死亡時の彼女の妹の着ていたものとそっくりなふりふりの白いワンピース姿で徘徊しているという都市伝説めいた話も聞いて、背筋が寒くなったものだ。

それから時がたち、大学生になってから、ビアンのパートナー募集掲示板に、私は連絡を送った。
ちなみに言うと、私はビアンではない、と思う。

高校二年生の雨の日、行きつけの古本屋の駐車場に停められていた軽自動車の中に引きずり込まれて強姦されて以来、私は男性とは性行為をしていない。

引き裂かれるような痛みと圧迫感と屈辱に、ただ圧倒され、身も心もぼろぼろになって帰宅し、自室に戻って呆然とした。

天罰、という二文字が私の頭に浮かんでは消え、からからと笑い声を上げた。

そんなわけで、私は男性は基本的に恐れていた。
しかし、人との繋がりによる温もりは、心の奥底では欲していた。

罪を犯しておきながら傲慢な話だが、私は救われたかったのかもしれない。

コバヤシミアとの事があってから、私は人と関わることに恐怖を覚え、友人を作ることもしなくなり、常に孤独に苛まれていた。

私はユキノ、という女性とコンタクトを取り、会って、即ホテルに向かい、抱き合った。

ユキノの容姿は予想していたよりもずっと美しかったし、人肌恋しさも紛れたため、私は刹那的な満足を得ることに成功した。

しかし、行為の最中から終わるまでのあいだ、ずっと言語化できない違和感があった。
彼女の顔をまじまじと見た時、唇の下にある大きな黒子を発見し、彼女がコバヤシミアであることを確信し、視界がぐにゃり、歪んだ。

その後私はコバヤシミアのLINEをブロックし、平穏な日常と、精神状態を取り戻そうとした。
しかし、彼女は私の居場所を特定し、大学の帰り道などに度々尾行してくるようになった。

恐らくコバヤシミアは、私に復讐しようとしているのだ。 
当然と言えば、当然かもしれない。

私は彼女に殺されてしまうのだろうか。
殺されることよりも、それによってもたらされる苦痛の方を恐れていた。
鋭利なナイフで刺されるか、あるいは彼女の妹のように、高いところから突き落とされ、破裂するか。

私は足早に彼女から逃げて、古くからあるショッピングモールのトイレに長時間籠もり、膝を抱えて胎児のように丸まった。

すっかり日が暮れ、もうさすがに大丈夫だろうと思いショッピングモールから出ると、白いワンピース姿のコバヤシミアが、微笑みを浮かべながら、私を見つめてきた。

コバヤシミアは信じられない速さで私にどんどん接近し、人気の無い路地裏まで追い詰めてきて、狂気を帯びた瞳と笑顔を、こちらに向けた。

もう終わりかもしれない。

私が覚悟を決めた瞬間、彼女の口元の黒子が右下にあることに気付き、驚愕し、脱力した。

「じゃあ何なの、あなた」

そう消え入るような、震える声で呟くと、私がコバヤシミアかと思い込んでいた、黒子のある白いワンピース姿の女は、けらけらと笑いながら、私の首を、じわじわと締めた。

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