「ここは今から倫理です。」12話への雑感
雨瀬シオリ著「ここは今から倫理です。」12話に出てきた、倫理問題について、あれこれ考えます。
■問題文
問題文は、以下のとおり。
「あなたはとある夫婦の家の隣に住んでいる」
「そこの夫は妻に酷い暴力を振るう人で」
「ある日その妻が、ボロボロの姿で、助けを求め、飛び込んできた」
「その後、その夫もやってきた」
「『俺の妻がここに来なかったか』」
「・・・さて、この時貴方は妻を、隠し通すか、夫の元に帰すか」
「夫は『見つからなければ警察に届け出る』という。
このまま匿い続ければ・・・
自分は『人さらい』になってしまうかも知れない・・・」
(※原文ママ。台詞を引用しました)
■問題に対する雑感
この手の、倫理問題・思考実験の類いには、正解はありません。
少なくとも私は、ないと考える人間です。
落としどころを探すことはできますが、それは「正解」とは似て非なるものです。
そういう意味で、まずは、「生徒の回答に、教師が、点数をつける」という劇中の設定に、拒否反応に近い違和感を覚えましたが、これは、時代の流れですかね。最近の子供は「道徳のペーパーテスト」にまったく抵抗感がないみたいですし。
■DV事案とホロコーストは「同じ問題」?
ところで。
この作中で教師が「この問題を、本当は、ナチス政権下の国民の家に逃げ込んだユダヤ人の話にしたかった」と言うんですが。
先の夫婦の問題と、ナチス政権下のユダヤ人の問題では、私は同じ回答は出せません。
難易度が異なっているからではありません。
重要な条件がひとつ、異なっているからです。
その条件とは、「逃げてきた人を守る場合に背負うリスクの種類と大きさ」です。
端的に言うと、現代日本では、成人のDV被害者を一時的に庇うことは法的にそれほど問題なさそうに思えますが、ナチス政権下でユダヤ人を匿うことは、当時のドイツの法を犯さなければ実現できません。
「自分にも被害が及ぶかもしれない」点では同じ部分もありますが、その被害を加えてくる相手と、その内容が全く違います。
当時のドイツの支配は、ヨーロッパの大半とアフリカ大陸の一部にまで及びました。かなり広大です。さらに言うと、それまでのドイツは、第一次大戦の賠償金のせいで、景気はあまり良くなかったはずなのです。
何が言いたいかというと、要は、一般庶民がドイツの支配域の外に脱出するのは困難だったということです。つまり「さっさと国外に逃げればよかったんじゃん」が実行できるのは、幸運な、少数の富裕層だけです。
この状況では、国に従うか、自らの全てを賭して抵抗するかの、ほぼ二択になります。
アンネフランクの一家を匿った支援者は、フランク一家の拘束時に、逮捕されています。
第三帝国内の強制収容所には、ユダヤ人だけでなく、ロマなどの少数民族や、各種政治犯なども収容されていたはずなので、ユダヤ人を庇ったドイツ人は、通常の刑務所ではなく、連座で強制収容所に投獄された可能性も低くはありません。
私が当時のドイツ人なら、彼らと同じ行動をとれる自信はありません。
勿論、DV被害も、決して軽微な問題ではありません。
しかし、「国が推進した迫害と同じである」とまで言い切るのは、いささか無理があります。
日本の警察は、DVの被害者と、被害者への協力者を、迅速かつ長期間保護してくれます。
そこに特殊な関係性がない限り、一時匿っても「人さらいだと思われる」心配をする必要はないと思います。
というか、先の問題は、閉じこもって110番通報の一択じゃないのかな。
隣から騒ぎが聞こえた時点で通報できていれば申し分なし。
DV被害者の成人を一時匿うことの何が問題なのか、正直、未だによくわかりません。私が知らないだけで、何か法的に問題があるのかな・・・。
この2つの設定が「互換可能」だとは、私にはどうしても思えません。
それとも、そういう文脈じゃないということかな、あの辺の下り。
■倫理問題の仮案
倫理問題の設定に「夫婦間のDV事案」を採用したのは、おそらくは紆余曲折の末の最終案で、そこに至るまでには、やむを得ない修正が入ったんだろう、と私は想像してます。
というわけで、「最初はこんな案も出たかしら」という推測を綴ります。
仮案1
・あなたの家に、未成年の子供が「助けて」と逃げ込んできました。
・とりあえずあなたは、その子を家に入れました。
・あなたはその子に関して「親からの虐待」の噂を聞いたことがあります。
・その子の親が、あなたの家にやってきて、訊きました。
「うちの子が、ここに来なかったか?」
・その子を親元に帰せば、その子はどんな目に遭うかわかりません。
「来ていない」と隠したら、「未成年を誘拐監禁していた」という
疑いをかけられるかもしれません。
・あなたは、何と答えますか?
仮案2
・あなたは学校の生徒です。
・あなたのクラスでは、随分前から、いじめが発生しています。
随分前から、というのがひとつのポイントです。
つまり、教師が頼りになるとは思えない状況だということになります。
・いじめの被害者があなたに「助けて」と頼りました。
・いじめの加害者があなたに「何? お前、あいつの味方?」
と訊いてきました。
・被害者を助けなければ、被害者は最悪、死に至るかもしれません。
被害者を助けたら、あなたもいじめのターゲットになるかもしれません。
・あなたは、何と答えますか?
どちらも、自分で書いておきながら、自分で回答が出せていないんですけどね。ふたつともスパッと回答を出せる人がいたら、私、その人のこと、あんまり信用できないかもしれません。
これらの倫理問題の「回答」を「採点」できる教師が、この世にどのくらいいるんだろうなあ。
■個人的な結論
今回ここに記した倫理問題に、共通の結論を出そうとしたら、こうなりました。
「正しいと思うことを実行するためには、
『力』と名のつく何かが、絶対に必要である」
腕力。体力。知力。魅力。胆力。
権力。経済力。軍事力。他人の協力。
他にもいろいろあるかもしれません。
これらのすべてが不充分なうちは、理想の実現は、おそらく不可能です。
カントは「いかなるときも、嘘をつくことは罪である」と説きました。
カントは「夫に『妻はここに居る』と言わねばならない」と考えていたことになります。
「ここに居る、しかし、引き渡すことはできない、とでも言えばいいだろ」とか思ってたんでしょうか。
でもねぇ。
そりゃあ、自分が、範馬勇次郎みたいな人間兵器だったら、どんな相手にも、何だってストレートに言えますよ。
でも、世の中、そんな人間ばかりじゃないでしょ。
私は格闘技経験者ではないし、強力なコネもありません。
相手を言いくるめられる弁舌も頭の回転も、怪しいところです。
ガラの悪そうな人とは、極力関わりたくない、小心者です。
それでも、自分の信念を貫きたければ、そのためには、使える力をフル活用しなければならない。
力がないままで、自分の望みを叶えたければ、偶発的な幸運を待つしかなくなるのです。
その点、昔の日本人は、カントよりは優しいことを言ってます。
ことわざにあるでしょう。
「嘘も方便」。
でも、自分に何かの力と、それを使う覚悟があれば、「ここには居ない」ではなく「居るけど今のあなたには渡せない」と言っても何とかなるかも知れない。
ユダヤ人に、ビザを発給してやれるかもしれないし、資金を渡してあげられるかも知れないし、逃走の手助けができるかも知れない。
結局は「だからこそ努力は必要だ」ということになるでしょうか。
ありふれた結論になりましたが、大切なものは、決して煌びやかではなく、地味でありふれた姿をしているものなのかもしれません。
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