輪廻転生に関する仮説:なぜさっさと抜けるべきなのか
宗派にもよるが、とりあえず仏教では、輪廻転生は「ある」とされている。
「生まれ変わり」と言えば何? と問われたとき、「松田聖子の記者会見」を思い出す人は、今は随分少なくなったろう。
郷ひろみとの破局会見で「生まれ変わったら一緒になろうねって、約束したんです」と涙声で語ったその僅か半年後に神田正輝と結婚した松田聖子の、一片の憂いもない満面の笑みを見たとき、やはりあのくらい面の皮が厚くなければ、トップアイドルにはなれないのだなあと、いっそすがすがしい思いがしたものである。
坊様が修行をする目的は、解脱である。
輪廻転生の輪から卒業すること。これを目指している。
そして、我々にも「その方がいいと思うよ」と説く。
生まれ変わりなんか、しない方がいい、と言うのである。
なぜなのだろう。
現代の日本には、口では「死んだら無になる」と言う人がたくさんいる。
しかしその割には皆、身内が亡くなったら、ちゃんと葬儀を行うし、年忌ごとに法要を行う。故人の生前の希望は出来るだけ叶えようとする。火葬場に直接連絡して直行したり、遺骨を電車の網棚に忘れて帰ったりするのは、極めてレアケースである。
「死んだら人は無になるのだから、骨は燃えるゴミの日に出すのが、コスパのいいライフスタイルです」などという話は、聞いたことがない。
何のかんの言って、漠然と「死んでもその先はあってほしい」と感じているのだと思う。
でなければ、なぜあんなに「死んだら記憶を持ったまま異世界に転生しました」という作品群が流行るというのか。まあ、アレらは要約すると「オレだけカンニングできれば東大の首席になれるはず」と言ってるだけの話なので、どうでもいい。
しかしなぜ、「その先がこの世であること」は望まない方がいいのか。
今回はその辺のことを、つらつら考える。
「前世は何か」を占って貰うのが、一時期やたら流行ったのを、ご存じだろうか。
「あなたの前世は中世ヨーロッパの姫です」だの「あなたの前世は戦国時代の武士です」だの言ってくれる占い師に、まんざらでもない顔で金を払う人が、一昔前には、結構いたのである。「前世がわかる誘導瞑想音源」なんかも、そこそこ売れた。
「私はキリストの生まれ変わり」と言い放ったイタコ芸の教祖や「前世は天草四郎なの」と言い切る大御所芸能人を笑えない黒歴史を持つ人は、あなたの周りにも実はいっぱいいる。
どうやら、西欧諸国の平民以上と、それ以外の外国の王侯貴族、日本の武士や姫が、現代日本の庶民に大量に生まれ変わったらしく、「農民」「浮浪者」「奴隷」などが前世と言われた人はほとんどいなかったようだ。ましてや、3億年も前から地球上に大量に存在し続けている「ゴキブリ」なんて言われた人は、おそらくひとりもいない。
何千円も払って「新聞紙でひっぱたかれて一生を終えました」とか言われた日にゃ泣くに泣けないので、それならそれで構わないが、それにしても、ボロい商売もあったもんである。不景気になると、こういうアホなものが減り、つまらない世の中になる。
バカバカしい話であるが、しかしこれがおそらくは、「輪廻転生なんかさっさと抜けた方がいい」と坊様が言う理由のひとつである。
要するに、「善良に生きて死んでも、来世が今世よりイージーモードだとは限らない」ということだ。
むしろ、ある種のハードルが高くなる可能性が、結構デカい。
私は以前、「オレはキリストと釈迦の生まれ変わりだ」と言い張る男とつきあっていたことがある。エルカンターレではない。下町の一般人である。キリストの生まれ変わりは世界中に大量にいる。謎である。
つきあい始めてから3ヵ月目くらいの頃、言い始めた。そういうだいじなことは最初から言ってくれよ。そしたらすぐ逃げるのに。
うへぁ、とひきながら、しかし「こんなオモシロいケースには、きっともう巡り会えないだろう」という好奇心が抑えられず、20代の貴重な時間を少しばかりムダにした。とてもオモシロかったので全く後悔はしていないが、非常に恥ずかしい過去なので、誰にも打ち明けていない。
あの頃、彼に「キリストと釈迦が、生まれ変わってなりたかったのが、今のあなたなの?」と訊ねていたら、彼は何と答えたのだろう?
同じことは、他のケースでも言えることである。
そんな華々しい一生を送った人間が、どうして、「それ以上に華々しい来世」とは真逆のものを選択しなければならなかったのか。
今生を「満ち足りていて幸せだ」と感じているなら、一応理屈は通る。
しかし「前世」を知りたがる人の多くは、どういうわけか皆、今生に少しだけ疲れているように見えるのである。その疲れを、前世の美しさとほろ苦さで癒やそうとしている。
それが悪いと言っているのではない。
ただ、この場合、どう考えても「転生した結果、前より余計に苦しんでいる」のである。
生まれ変わりなんてモノがあるなら、それはなぜなのか。
苦しむためなのか。ならばそれは何のためなのか。
それは、もしかしたら、
「今生で理解できなかったものを理解できる立場に立つため」
かもしれない。
であるならば。もしかしたら。
考えるだけでも怖気が走るが。
「来世は、今生で最も嫌悪や侮蔑を感じたものに、転生する」
のかもしれない。
そりゃあキリストは「汝の敵を愛せ」と言うよね。
愛さなければ、来世でそういうやつになるぞ、そのとき近くには今のお前みたいな人間がたくさんいるぞ、って、めちゃめちゃ恐ろしい話である。
釈迦が「できるだけ早く輪廻を抜けろ」というのも、そりゃそうだよね感がアップ。
おそらくこの辺の感覚が曲解されてるのが、ヒンドゥー教の一部教義なのだろうという気もする。実に嫌な話である。
おっと、憎んだら縁が出来るのかも知れないのだった。今のなし。
ちなみに私の前世は、狼だそうだ。
一度、誘導瞑想音源を聴いて寝たら、自分が狼だった夢を見た。
人間じゃないのかよ。哺乳類だっただけありがたいと思うべきか。
狼だった私は、広い大地を独りで疾走していた。
猛スピードで駆け抜けながら、しかし、冷えた頭で思っていた。
「いくら速く走ることが出来たところで、人間には敵わない。
勝者になりたければ、必要なのは、身体能力ではなく、頭脳だ」
家族を人間に撃たれでもしたのだろう。
まあ、それが単なる夢なのか、それ以上のものがあるのかはわからない。
ただ、私は、比較的使い勝手の良い記憶力を持っているし、運動関係は、ほぼ全部苦手である。特に走るのはとんでもなく遅い。中学時代の長距離走の大会で、ひとりだけ遅かったせいで、ゴール間際で、同情の拍手が自然発生したくらい、遅い。
この理屈で行くと、私の来世は、間違いなく、スズメバチかゴキブリである。
そして、あっという間に人間に殺され、あんな悪魔のような生き物はいないと憎んだ勢いで、人間に返り咲きであろう。
流石に自分が可哀想なので、せめて人間界の中で限定させてもらえるならば、来世の筆頭候補は「自分の望みを叶えるためなら、他人をどれほど傷つけても気にならない、身勝手な生き方をする人間」である。
犯罪者か、毒婦か、人間のクズか、戦時の英雄か、死の商人か。
いずれにしても、波乱の来世には違いあるまい。
今のうちに、好きな本を、読めるだけ読んでおくことにする。
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