芥川龍之介「藪の中」考察④
芥川龍之介「藪の中」について、綴ります。
今回はまず、時系列のまとめから。
■時系列
ほぼ事実と思われることを列挙します。
日時不明 武広と真砂が結婚する。
昨日 武広と真砂がふたりで若狭へ出立する。
昨日午頃 旅法師が武広と真砂を、関山から山科への路上で見かける。
昨日午少し過ぎ 多襄丸が、武広と真砂と出会う。
この間、多襄丸と武広と真砂との間で何かがあり、武広が死ぬ。
昨日午後7~9時 多襄丸が、粟田口で捕らえられる。
今朝 木樵りが武広の死体を見つける。
今日 多襄丸が供述。
日時不明 清水寺に身を寄せる女が真砂と判明。
巫女の口寄せにて、武広が呼び出される。
これを踏まえて、気になるポイントを列挙しておきます。
今回は、列挙するだけになると思います。
■旅法師、多襄丸の、出会い方
旅法師も、多襄丸も、武広と真砂の二人連れに出会ったのは、正午頃です。旅法師が「午頃」、多襄丸が「午少し過ぎ」と証言しているので、多襄丸がやや後ですが、その時刻は極めて近いと言えるでしょう。
旅法師は、関山から山科へ向かう道すがら、すれ違ったような言い方をしています。
関山というのはかなり古い地名で、今で言う、伏見桃山あたりのことであるという記述をネット上で見かけたので、それを採用して考えます。
でも、だとすると、よくわからないんですよね。
私は京都に関しては土地勘が全くないので、地図を眺めて考えるしかありません。
なので、ずれたことを考えている可能性はあるんですけど。
そもそも、武広と真砂の目的地は、若狭です。
ならば、伏見桃山を経由したのなら、そこからそのまままっすぐ、北上したほうが、道も広くて綺麗で、その距離も短縮できるんじゃないですかね。
山科を経由するとなると、伏見桃山から山科への方角は、ざっくり北東方面になるので、ぶっちゃけ、遠回りになるように思えるんです。
旅法師がふたりと出会ったのは、ふたりが多襄丸と出会う前です。
このときふたりは、何しに山科方面へ向かってたんでしょうか?
よくわからないことはもうひとつ。
旅法師と二人がすれ違ったその後、多襄丸は二人と連れ立って歩くことになるのですから、ならば旅法師は、多襄丸とも、どこかですれ違うなり見かけるなり、していてもよさそうなものだと思うのです。
この道は駅路、すなわち街道。そこそこ大きな道です。
多襄丸はふたりを、道からかなり外れた藪の中に連れ込んで犯行に及びます。ということは、この街道自体は、かなり見晴らしがよさそうだということになりそうです。
ならば、「多襄丸は道の脇に隠れていたので、旅法師は気づかなかった」はちょっと考えにくい。
だったらやっぱり、旅法師は多襄丸を、どこかで見かけていておかしくないし、それなら、すれ違っただけのふたりのの出で立ちをあれほど詳細に記憶していた旅法師のこと、腰に縄を垂らしているという少々普通ではない水干姿の男のことも、少しは覚えていても良さそうなものです。
しかし、旅法師は、多襄丸のことには、一切言及しません。
なぜなのか。
■旅法師は、どんな「気の毒なこと」をしたのか
こう考えると、「気の毒なことをしました」という旅法師の言葉の意味が、ちょっと見えてくる気がしてきます。
武広は、侍でした。
天下太平の、竹光でも全く困らない江戸時代の侍とは訳が違う。
町を警護し、貴族を護衛し、敵や悪党と戦うことで、飯を食う連中です。
当然体格もよかったでしょう。
そこに加えて、武広はかなりの武装をしています。
太刀。弓矢。女連れとはいえ、馬もひいている。
いざとなれば、応戦、逃走、いかようにもできそうです。
そういうわけで、もしかしたら、旅法師は、武広と真砂を見かけたとき、こんなふうに思ったのかもしれないと、今のところ私は想像しています。
「この男なら、女連れでも、盗人風情に後れをとることはあるまい」
武装してる20代マッチョ自衛官に「この先にヒョロいチンピラがうろついてるから気をつけてね」と、警告する気になりますか?
ならないでしょ。
お手討ちが無罪になりがちな世の中なら、特にならないでしょ。
何かあったら返り討ちにするだろうという気もしますし。
だから、旅法師は、黙ってそのまま行かせた。
そしたら、男は意に反して死んでしまった。
まさかこんなことになるとは。
ならば一言声をかけておけばよかったろうか。
これが、旅法師のした「気の毒なこと」だったんじゃないですかね。
というわけで、「旅法師は、多襄丸の存在に気づいていた」が私の現時点での推測のひとつです。
しかし、もしそうなら、なぜ素直にそう供述しないのか。
たとえ訊かれなかったにしたって、最後まで黙ってることないでしょ。
おまえ多襄丸とグルか、と、痛くない腹を探られたくないのか。
そういう態度をとるから、かえって余計に怪しく見えるんだぞ。
■多襄丸はなぜ黙秘も否定もしなかったのか
武広の死体が発見されたのは、多襄丸が捕縛された後です。
よって、多襄丸の逮捕は、元々は別件だったということになります。
多襄丸の取り調べは捕縛された翌日。
この日の朝に、武広の死体が木樵りにより発見されています。
多襄丸が、どれほどの罪を重ねているかは、わかりません。
女房と女の童の殺害に関しても、放免が「多襄丸に違いない」と言い張っているだけですから、事実多襄丸による事件なのかどうかはわかりません。
放免が「この男の仕業だと言っていた」と言及しているところを見ると、多襄丸がすんなり自白したということでしょうか?
多襄丸は「どうせ自分は死刑になる」と言っていますが、それがどの程度正確な見立てなのかは、当時の刑法を知らないので、私にはなんとも。
案外その通りなのかもしれないですけどね。
実際のところ、「さっさと死刑にしてくれ」と口にする被告は、珍しくはありますが、いないわけではありません。
なので、多襄丸の態度も、さほど不自然だというわけではありません。
しかし。
放免は多襄丸を、元々別件で逮捕したらしきことが窺えます。
ならば、まずは、元々の容疑から先に取り調べをするはずなのです。
しかし、多襄丸は、昨日犯したらしき最も新しい事件のことを、捕まった翌日にはもう話し始めています。
ということは、多襄丸がそれまで犯した犯罪の数は、実はそこまで多くはないのではないか、という気がするのです。
つまり、「どうせ死刑」は多襄丸本人が思っているだけで、供述内容と証拠の質と量によっては、案外、所払いくらいで済む可能性もあったかもしれないじゃないですか。
だったら、いくら「潔くありたいと思った」と言ったって、そんなに最初から何でもすぱすぱ認めることもないと思うんですけどね。
なぜそんなに何でもかんでも皆認めたんでしょう。
拷問じみた取り調べがいやだったのかなあ。
痛いのが苦手そうではありますしね。
■真砂が清水寺にいることがなぜ判明したのか
これ、よく考えると不思議です。
発見されたのは男の死体だけ。
「女連れだった」という証言はあっても、その女は行方不明。
この状況なら、関係者が「女は清水寺にいる」と証言するか、本人が「恐れながら」と出頭しない限りは、真砂はこんな短時間では見つからないのではないかという気がするのです。
で、本人が自発的に出頭してきたというのは、簡単には考えにくい。
本人に逃げ隠れする気がないのなら、そもそも、本人が駆け込む先は、寺じゃなく、役人の詰め所だろうという気がするので。
なので、考えやすいのは、誰かが証言したということのほうなのです。
しかし、だとすると、それが誰なのかは、今のところわかりません。
あるいは、やっぱり本人が自発的に出頭してきたのだとすると、そこには何かよほどの理由があるということになりそうでもあります。そうならば、それは何なのか。
今回はこのあたりで一旦区切ります。
次回以降は、後半3人の供述内容にも触れつつ、少しずつひもといていければと思いますが、すんなりとはいかない予感。
どこから手をつければいいのやら・・・。
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