無門関後序 現代語訳と雑感

後序

 以上、仏祖が示した四十八もの機縁は、決め事に従って最適な案を練るように、初めから不必要な語はひとつもない。
 頭蓋骨をひっぱがして裏返し、その眼をえぐり出す。
 各人が即座に、自分の裁量で取り組めばそれでよく、他人の答えを参考に求めるようなことはないようにして欲しい。
 もし、あらゆるものに通じることのできる、菩薩のごとき人であるなら、わずかに話を聞いただけで、その真に意味するところを識るであろう。

 結局、ここから入らねばならないという門はなく、これを昇らねばならないという階段もない。
 大手を振って関をくぐればいい。
 関の役人のことなど気にする必要はない。

 当然目にしたことはあろう。玄沙の言葉だ。
「無門とは解脱門、無意とは悟道の人の意」。
 また、白雲は言った。
「明白であるにも関わらず、なぜ、ここのところを透過できない?」と。
 ここに挙げたような説話も、赤土に牛乳を練り込むようなものだ。

 もし無門関を通り抜けられれば、とっくに無門を超えている。
 もし無門関を通り抜けられなければ、すなわち自分への裏切りである。

 いわゆる、涅槃心、すなわち悟りの心は解き明かしやすく、差別智、すなわち煩悩の世を認識するための智慧は解き明かすのが難しい。
 しかし、だからこそ、差別智を解き明かすことが出来れば、家も国も、自ずから安泰となるだろう。

 紹定改元の年 解制の五日前である 七月十日
 楊岐方会臨済第八世の法孫 無門比丘慧開
 謹んで識す

 無門関 巻終


注釈・雑感

 表文にも書かれていたんですが、この書物、寺だけに配布していたわけではなく、国に献本したらしいことが窺えます。
 そして、目的として「涅槃の心、菩提心を探求する」だけでなく「分別智を解き明かす」も挙げています。

 分別智。現実の世界を生きるために必要なものです。
 智、すなわち、「智慧」ですよ。
 これはこれで大切だと私は思う。
 これの解明が世の安泰に繋がると書かれています。
 ならば、これを無視して考えないほうがいい。

 その分野の純粋な探求と、その分野の活かし方の模索と。
 車の両輪みたいなもので、どちらも必要なのだと思います。

 ところで、ここでは「悟りの心は解き明かしやすいが、分別智は解き明かすのが難しい」と書かれています。
 逆じゃないの? と思う人もいるでしょうけど、それは多分、自我にまだ損傷がない人の感覚です。
 いわゆる「悟り」は、極限状況に自分を追い込み、自分の精神の一部をぶっ壊しさえすれば、「見る」ことができますが、分別智というのは、思考で理論立てて言語化する必要があります。
 だから、悟りの理解は簡単で、分別智の理解は難しい、ということなんじゃないでしょうか。

 だから、分別智に取り組むのは、少なくとも昔のお坊さんにとっては、ぶっちゃけ割に合わなかったんじゃないか、という気もするんですよね。
 それは困難な道のりなのに、いわゆる悟りに取り組む人に比べて凡人みたいな扱いをされたんじゃないかという気がしてしまう。
 勝手な想像ですけど。
 伝統工芸品の漆器より、日用品の漆器が軽んじられる感じというか。
 でも、分別智の理解も、必要なことではあるのです。 

 そこいくと、瀬戸内寂聴は偉い。寂聴は天台宗ですけど。
 本人はなかなかろくでもない人生を送ったし、言ってる内容も、私には納得できたりできなかったりな感じでしたが、しかし彼女は、市井の人々の俗な悩みを、つまらぬもの、唾棄すべきものとして打ち捨てずに、真正面から向き合い、ともに救われようと、温かい眼差しを投げかけ続けた。
 得度前は、文学で。得度後は、仏法で。
 少なくともその一点においてだけは、素晴らしい人だったと、私は思っているのです。

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