無門関第十一則「州勘庵主」現代語訳

公案現代語訳

本則
 趙州は、ある庵主の元を訪れて、問うた。
「居るか? 居るか?」
 庵主は、握り拳を突き上げた。
 趙州は言った。
「水が浅くて、舟を停められる処ではない」
 そして立ち去った。
 趙州は、また、ある庵主の元を訪れて、問うた。
「居るか? 居るか?」
 庵主は、やはり、握り拳を突き上げた。
 趙州は言った。
「生殺与奪、すべて意のままだ」
 そして頭を下げた。

評唱
 同じように握り拳を突き上げているのに、なぜ一方は肯定し、一方は否定するのか。
 この話の肝はどこだ。
 もし、これに対して、一言で言い表すことが出来たら、趙州の舌に骨がないのがわかり、趙州のように、助けるも倒すも自由自在となるだろう。
 とはいえ、趙州が逆に、二庵主から見抜かれるのは、どうしようもない。
 二庵主に優劣が有ると言うなら、まだ禅を学ぶ眼が具わってない。
 二庵主に優劣が無いと言うなら、まだ禅を学ぶ眼が具わってない。


 その眼は流星
 その機は稲妻
 人を殺す刀となり
 人を活かす剣となる


注記
 庵主というのは、庵に住む僧侶のことです。
 現在では特に尼僧を指すことが多いようですが、ここでは性別は関係がないでしょう。
 仏教において、庵というのは「仏道修行のために構えるもの」という見方があるようですが、場合によっては、「悟りに至ったにも関わらず、そうではない風情で、庵に住み続けている」という場合もあるかもしれません。

 本則の原文では、前の庵主も、後の庵主も、全く同じように「一庵主」と書かれています。
 評唱の記述を考慮して「別の庵主」と書いてある現代語訳が多いのですが、あえて同じように「ある庵主」としてみました。

 頌の文章は、第八則にリンクするような表現ですね。
 八則にも何かヒントがあるのかも知れません。

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