芥川龍之介「藪の中」考察②

芥川龍之介「藪の中」について、綴ります。
 今回は、前半四人の証言について、それぞれ個別に考えます。
 次回、後半三人の証言について個別に考え、その後関連させて考えていく予定です。
 

■木樵りの物語について

 男の死骸の発見者の証言です。
 私には、この作中の登場人物の中で、この木樵りの証言が最も信頼がおけるように感じられます。
 その根拠は後述しますが、木樵りの証言は、まずそのまま受け取ってもよかろうかと、私は判断しました。
 
 木樵りが発見した死体の状況は以下の通り。
・発見したのは、この日の朝方。
・縹色の水干、都風のさび烏帽子を着用。
・仰向けに倒れている。
・傷は胸元の突き傷のみ。
 その死体の周りは赤黒く染まっている。
 傷は乾いている。

周囲の状況は以下の通り。
・遺留品は、縄が一筋と、櫛がひとつ。
 太刀も弓矢も、小刀もない。
・草や竹の落ち葉は踏み荒らされている。
・馬はその場にはいない。

木樵りの推測
・男は随分暴れた。
・現場は馬が入ってこれる場所ではない。

「死体の周りに血が大量に流れていた」ではなく「赤黒く染まっていた」、「刺されてからかなり時間が経っていた」ではなく「傷は乾いていて蠅が集っていた」と証言しています。
 木樵りは、極力事実だけをありのままに伝えようとしているのです。
 自分の推量にあまり信をおいていないのでしょうか。

また、この木樵りは、「現場に、女物の櫛がひとつ落ちていた」と証言しています。
 時は平安時代。都の大通りに市が開かれ、物を売りたい人はそこに行き手持ちの物を並べて現金に換える。そんな時代です。
 今回の場合、落ちていた女物の櫛を、ネコババして売ってしまえば、品質によってはそこそこの金になるわけです。
 しかしこの木樵りは、「落ちていました」と証言した。ならばその櫛は証拠品として提出されたということになりそうです。
 基本的に、根が正直な男なのだと思います。

よって、正直者が、見たままを証言しているということになります。
 これが、私が木樵の証言をそのまま採用してよかろうと考えた根拠です。

というわけで、木樵りの証言から推測できそうなことを列挙しておきます。以下は私の考察です。
・致命傷は胸の刺し傷。
・胸を刃物で刺した後、その刃物を抜いている。
 そのため、出血多量により絶命に至った。
・負傷してから死後発見されるまで、そこそこ長い時間が経過している。
・縄で縛られたまま男を殺し、その後縄をといた、という可能性は、比較的低い。
(死後縄をといた場合、男は俯せか横向きに倒れ込む可能性が高い。昔の日本人は比較的小柄だったとはいえ、成人男性は決して軽くはなく、一人で遺体の位置や体位を変えるのは非常に困難なはず)

■旅法師の物語について

 旅法師とは、いわゆる雲水のような者かと、私は解釈してます。ひとつところに定住せず、あちこちに赴いては経を上げ、説法をし、布施により命を繋ぐ。

とある旅法師が、殺された男を見たと証言します。その証言は以下の通り。

・見たのは、昨日の昼。
・馬に乗った女を連れていた。
・女は布つきの笠を被り、顔は見えない。衣の柄は萩重。
・馬は月毛、たてがみは法師髪、丈は四寸ほど。
・男は太刀と弓矢を持っていた。矢は20本ほど。

 萩重の衣を着ていたということは、季節は秋だったんでしょうか。
 ところで、旅法師の証言に関して、私にはピンとこないところが幾つかあります。

法師が「関山から山科へ参ろうという途中」、男と女は「関山の方へ」向かっていたと、法師は証言しています。
 つまり、これをそのまま解釈すると、彼らは「路上ですれ違った」ということになりそうなのですが、そのわりには、男と女に関する法師の証言が詳細すぎるような気がするのです。

「自分は仏門の徒だからよくわからない」と言いながら、馬の様子や女の服装についてはまだしも、男の武装の様子まで事細かに記憶しています。しかも、箙に入れた矢については「今でもはっきり覚えている」と言っています。
 道でさっとすれ違っただけの見知らぬ他人の姿を、ここまで詳細に記憶できるものなのでしょうか?

そして、これほど詳細に記憶し語る法師が、男の服装には一言も触れません。
 男に関して語るのは、あくまでも武具だけです。
 
 また、法師は、他にも、引っかかる言葉を口にしています。
「あの男がこんなことになるとは夢にも思わずにいた」
 よほど男が屈強そうに見えたということでしょうか?
「何とも申しようのない、気の毒なことをした」
 そしてこれがどうにも違和感があります。
「気の毒なことであった」ではなく「気の毒なことをした」です。
 この僧侶は、死んだ男に、一体何をしたんでしょうか?

■放免の物語について

放免というのは、検非違使の手先として犯罪者を捕まえる、元犯罪者です。
 今回の事件の容疑者を捕らえた放免の証言は、以下の通り。

容疑者である男に関して。
・多襄丸という名の盗人。
・昨夜午後7時から9時頃の間、石橋の上で呻っていたところを捕らえた。
・紺色の水干を着用。太刀を持っている。
・今回は弓矢も持っていた。矢は箙に17本。

その他。
・法師髪の月毛の馬が、石橋の少し先にいた。
・連れの女はいなかった。

多襄丸に関する放免の推測は以下の通り。
・いつも紺色の水干を着、太刀を持っている。
・馬に乗っていたが、石橋で馬から落とされた。
・男を殺して弓矢を奪った。
・女好き。昨年、女房と女の童を殺している。
・男の連れの女にも、危害を加えている。

この放免は、事実と推測の境がつかなくなるタイプのようです。噂に尾ひれをつけまくり、話を無駄に大きくするのは、こういう奴だと思います。
 ところで、放免の証言にも、よく解らないところがあります。

「女房と女の童を殺したのはこいつだとか申しておりました」
 誰が言ってたんでしょう? そういう噂が流れてるということだろうか?
 だとすれば、捕方が単なる噂をろくすっぽ調べも考えもしないで真に受けているということでしょうか。警察組織の人間が頭の悪い前科者。こんな恐ろしい話はそうそうないです。
 とりあえず、「こいつの言うことは話半分に聞いていい」ということの裏付けとして受け止めることにします。

また、法師の目撃談と今回の証言を照らし合わせると、矢が数本減っていることになるのですが、これを記憶の誤差と判断するか、確かに減っていると判断するか。
 減っているのなら、誰がいつどこで使ったのか。

■媼の物語について

この媼は、男の連れの女の母親であることが知れます。

媼による、男と女に関する証言は以下の通り。

・男の名は武弘。若狭の国府の侍。歳は26歳。
・女の名は真砂。歳は19歳。
・女の顔は、色が浅黒く、左の目尻に黒子がある、小さな瓜実顔。
・男と女は夫婦。
・男と女は昨日、若狭へと出立した。

男と女に関する媼の人物評
・男は優しい気性で、人から恨まれるような人間ではない。
・女は男勝りの勝ち気な性格だが、身持ちは堅い。

媼と言うと、かなり高齢のお婆ちゃんという印象になるのですが、古来日本では、四十を過ぎると初老と言われたようですから、実際は中年女性以降をイメージして良さそうです。
 もしこの媼の歳が40代で、娘が19歳ということならば、親子としてさほど不自然な年の差ではなくなります。

さて、この媼の証言により、男と連れの女が夫婦であったことが明らかになります。
 平安時代の適齢期は男女とも10代中盤だったと言われています。女性は20代に入ると行き遅れなどと揶揄された時代。初婚で19歳というのはかなりギリギリだと思います。
 そこにもってきて、性格は勝ち気。
 顔は色黒の小さな瓜実顔。
 慎ましやかな色白の下ぶくれが美人とされていた時代では、容姿も性格も難ありと言わざるを得ません。親としてはかなり妥協した結婚だったろうということは容易に想像がつきます。

だからなのか。いざとなると「婿はこの際どうでもいいが、娘だけは」などと、随分な言い草です。
 子を思う親の偽らざる気持ちなのでしょうけど、もしかしたら「私のだいじな金づるが」という気持ちも、なかったとは言えないのかもしれません。
 娘さえ生きて戻れば、妾や後家の話も舞い込むかも知れませんし、話がまとまれば婿の家から生活費が渡されますしね。
 
 しかしそうなると、男側の視点で考えると、「気立ての優しい侍」が、二十六歳になるまで、「年増になりかけ」の「性格に難あり」な「醜女」という三重苦(※あくまでも平安時代の価値観による評価です!)の女性しか妻として迎えることが出来なかった、ということになります。
 よほど男に金がなかったのか。
 あるいは男の見た目がよろしくなかったのか。
 それとも。

 以上が、前半四人の証言の要約と考察です。
 すでに事実と推測の境界があやふやな箇所が多々あるのに加え、足りないピースも少なくはなさそうな雰囲気です。
 事実の把握が非常に難しい。
 これだけで解ることは限られますから、後半三人の証言を次回考えることにします。

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