芥川龍之介「藪の中」考察⑤

 芥川龍之介「藪の中」の考察を綴ります。

 今回から、多襄丸、真砂、武広の供述について、綴る予定です。
 今回はおそらく、藪の中に3人が入るあたりまでになるかと思います。

 真砂と武広は二人とも、真砂が手込めにされた後のことから語っており、それ以前のことについては供述を残していません。
 ですから、多襄丸の供述をベースにして考えます。


■藪の入り口に着くまで

 武広と真砂が、武広の故郷、若狭に向かう途中、多襄丸が二人を見かけたのが、事態の発端です。
 偶然目にした真砂の素顔に、言わば一目惚れをした、というのが、多襄丸の言い分です。
 瓜実顔の女性に菩薩を見た思いがしたというところに、若干の違和感はあるんですが、これは、この小説が世に出たのが大正11年であるという事実が若干関係するのかもしれませんから、あまり深く考えないことにします。
 要は、多襄丸の目にはとても美しく映った、ということでしょうか。
 それとも、あるいは。

 ここで多襄丸は、ちょっとよくわからない皮肉を口にします。
「女を奪うために、私は腰の太刀で人を殺すが、あなた方は権力で殺す」
 血は流れないし、生きてはいるが、それでも死ぬのだと。
 このタイミングでこう言わずにおれないということは、多襄丸自身が、昔、位の高い誰かに、愛する女を奪われた経験があるのかもしれません。

 さて。
 古塚から掘り出した宝を、安値で売り渡したいと言ってみた。
 この多襄丸の申し出に、武広は心を動かされ、承諾した。
 武広は、真砂を一人馬上に残したまま、多襄丸と藪の中に入った。
 これが、多襄丸の供述なんですが、すっきりしません。

 武広は、よく、真砂を一人、残していけたなと思うんですよ。
 よほど宝に目がくらんでいたということでしょうか。
 あるいは、こうも言えます。
 真砂は、よく、一人で道ばたに残れたな、と。
 藪の中を分け入っていくことと、道ばたに女ひとりで残ること。
 どちらかというと、後者の方が危険なようにも思えるんですが。
 実際、多襄丸が真砂を呼びに来た後は、結局一緒に藪の中に入っているわけですし、最初に渋った理由が、多襄丸の供述ではどうにもしっくりきません。

 武広と真砂、新婚らしき割には、やや冷えた関係に見えるんですよね。



■藪の中の、多襄丸と武広

 さて、武広と多襄丸は、真砂を残して、二人だけで藪の中に入ります。
 そこに本当に宝があったのか、それともなかったのか、それは明らかにはされていないんですが、案外本当にいくつかそれらしきものが置かれてはいたのかもしれません。多襄丸は、盗人ですから、盗んだ物を一時保管しておく場所がまさにそこだったかもしれませんし。

 ところで、抗う相手を縄で縛るというのは、口で言うほど簡単なことではありません。
 まあ、大方の人は、実際に誰かを縛った経験も、誰かに縛られた経験もないでしょうから、あまりピンとこないかもしれませんが、武装している侍を、自分は無傷で縛り付けるなんて、いくら不意打ちに成功しても、よほどの体格差、実力差がなければ不可能だと思います。
 縛られる側が「縛られよう」と受け入れない限り。

 後ろから頭をしたたかに殴りつけでもすれば、可能かもしれませんが。
 しかし、このとき藪の中に二人で入った理由は、「多襄丸の持つ宝を武広に売り渡すため」です。ならば、宝の元に案内をするのは多襄丸の方なのですから、前を歩くのは多襄丸であるはずなのです。
 偶々、後ろに回れる機会が訪れ、そのタイミングで殴ったんだろうか。
 しかし、そこそこ悪知恵の働く多襄丸が、肝心要のところを、そんな運任せにするような計画を立てるとも思えません。

 そういうわけで、多襄丸と武広の間で、何かしらの密約が、ここで成立したとしか思えません。
 つまり、あえて、武広は多襄丸の手で縛られることを承諾した。
 そうとしか思えないんですが、では、武広が縛られることが必要となる密約とは何なのか?


■藪の中に入る、真砂と多襄丸

 藪の中に入るなんていや、と渋ったという真砂が、多襄丸と共に、後から藪の中に入ります。
 武広が急病になったと言ったら真砂はあっさり信じてついてきた、というのが多襄丸の供述なんですが、んなアホな。

 無理筋にも程がある。
 突っ込みどころが満載の設定です。

 まあそれを言うとね、大半のエロ小説やらエロマンガなんかは全部そうだろ、なんて話にもなるんですけど、藪の中の作者は団鬼六ではありませんので、容赦なくシビアに考えます。

 もし、多襄丸の供述のこの部分が真実なら、真砂はアホです。
 頭が少々残念な女性だと言って差し支えない。
 夫と2人で入っていった男が、1人で戻ってきた。
 さっきまでピンシャンしていた夫が急病だから、来いという。
 この時点で、ちょっと怪しいと思うべきです。

 急病なら、看病するなり薬師に診せるなりしないといけないとこでしょ。
 侍階級程度では、薬師を呼ぶのは難しいんでしょうか。
 あるいは、手持ちの薬を飲ませる、とかでもいいんですけど。あればね。
 でも、どっちにしろ、真砂をひとり武広の元にモタモタと連れて行ったところで、できることはたかが知れている。

 ならば、ここで、多襄丸の口から発せられる言葉は、たとえば「急いで薬師を呼んでくるから、ここで待っていてくれ」とか「急いで薬を飲ませたいので、あれば渡してくれ。まず自分が急いで飲ませに戻る」あたりであってほしいところです。
 必ずここに戻ってくるからと。
 まあこれはこれで怪しいですかね。
 あるいは、いっそいきなり、武広を背負って馬のところまで戻ってきてくれてたら、多少は信用できるかもしれませんけど。
 いずれにしろ、真砂は多襄丸を、かなり警戒しなければならないところだと思うのです。何をどう考えたって、怪しいんだもん。

 真砂は、気の強い、勝ち気な女性だという証言もあります。
 ぼんやりおっとりした、貴族の姫とは若干違います。
 ましてや真砂は、今や、武家の奥方なのです。
 とりあえず、夫のところに行くまで手を縛らせてくれくらいのことは、言うだけ言ってみても良さそうな状況じゃないですか。
 なのに、動転のあまり鵜呑みにし、罠にかかる? そんなバカな。

 さらに。
 多襄丸が真砂の元に戻り、再び藪の中に、真砂を連れて入るとき、真砂は市女笠を脱いでいます。
 夫に連れられての道中、市女笠で顔を隠し続けてきた女が、多襄丸と二人きりのときに、わざわざ笠を脱いだということになります。
 武広の元に行くまでは、別にかぶったままでも良くないですか?
 というか、真砂と多襄丸が、誰かの妻と見知らぬ男、という関係性なら、本来その方が自然な気がします。

 そういうわけで、多襄丸の供述には、疑わしい点があるわけです。
 多襄丸と真砂は、本当にこのときが、初対面だったのだろうか?


■藪の中、3人揃う

 こうして、縛られた武広の前に、真砂が、多襄丸から手を引かれてやってくる形で、藪の中で3人出揃います。

 ここから、真砂が多襄丸に手込めにされるところまでのシーン。
 一見不自然な箇所はないように思えますが、今まで綴ってきた疑問点を頭に置きながら読むと、少々引っかかる点があります。

 武広が縛られているのを目にした瞬間、真砂はいきなり小刀を抜きます。
 それを、すったもんだの挙げ句、多襄丸に取り上げられます。

 さて。
 真砂はこのとき。
 いったい、誰を刺そうとして、小刀を抜いたのでしょうか?

「は? そりゃ多襄丸に決まってるだろ?」と思いますか。
 私も最初はそう思いました。
 でも、よくよく読んだら、多襄丸は、「真砂が誰に向かって切りつけようとしたか」は、はっきりとは説明していないのです。

 真砂が逆上して小刀を抜いた。
 自分は真砂からなんとかして小刀を取り上げた。
 多襄丸が供述したのは、これだけです。
「自分に向かって斬りつけてきた」とは、言っているようで、実は言っていません。ちゃんと読めば、その通りだと言うことがわかると思います。

 ならば、このシーンは。
 当然「武広を助けようとして、多襄丸を小刀で刺そうとし、失敗した」とも解釈はできますが。
 たとえば「縛り付けられて抵抗ができなくなった武広を刺そうとして、多襄丸に止められた」という解釈だって、できなくはないくだりなのです。

 もしも後者だったら、武広の霊が、そのことに言及しないはずがない、と思うでしょうか。
 そうかもしれない。しかし。
「このことに武広が気づかなかった」のなら、話は通ります。
 どういうことか。

 つまり。
 このシーン、「真砂が黙ったまま、顔だけ多襄丸の方に向けながら、小刀を取り出した」のだとします。
 これを、生々しく想像してみてください。
 これを、武広と、多襄丸が、それぞれどう解釈するか。

 武広は、当然「自分を助けるために小刀で挑もうとした」と解釈する。
 武広にとってそれは自然な成り行きなので、意識からすっぽぬけ、供述しない。
 しかし、多襄丸は、もしかしたら「真砂が『今から私がこの小刀で武広を刺す』と無言で訴えている」と解釈したのかも知れない。
 そしてそれはもしかしたら、多襄丸の目的とは相反する選択だったのかもしれない。だから止めた。

 こう考えると、大きな矛盾なく成立します。


■ここまでの個人的考察

 というわけで。
 私は、現段階では、「多襄丸と真砂は、実は過去、深い関係だったことがある」と考えています。
 しかし、多襄丸の元々の身分は高くはなく、そのため、真砂の親は、多襄丸ではなく、武広を、真砂の婿として選んでしまった。
 もしかしたら、ここに至るまでの間、武広はかなり無茶なやり方で真砂を娶ろうとした可能性もある。
 しかし、それでも真砂の親は、武広を婿として選び、真砂はそれに異を唱えることができなかった。
 そのため、ふたりは、泣く泣く別れるしかなかったのかもしれない、と。

 これが「自分が、上の身分のやつらから、生きながら殺された」と多襄丸が口にせずにいられない背景なんじゃないでしょうか。
 真砂の親が、「真砂は武広しか男を知らない」と、事件の究明にさほど必要とも思えない事柄をわざわざ強調しようとするのも、かえってこのことを強く印象づける形に、私にとってはなってしまいます。
 そして、新婚であろうにも関わらず、新妻をほっぽりだして宝を得に行こうとする武広や、それを冷淡に見送る真砂の、やや冷え冷えとした様子も、これでなんとか説明がつきます。

 多襄丸はおそらく、真砂のことを忘れることができていません。
 だから、真砂の素顔を多襄丸が見たときの、多襄丸の本当の気持ちは、「菩薩のように美しい。一目惚れだ」ではなく、「よし。この女が真砂だ」だったのではないかと、私は思っています。
 つまり、偶然出会ったのではなく、待ち伏せていた可能性が高い。
 おそらくは、真砂を、道中で、奪って掠うために。
 ついでにいうと、それ以前に、いくつか女が殺される事件が起こったのも、「多襄丸による、真砂を奪う本番のための、予行演習」だった可能性がある、とも、私は考えています。

 そして真砂も多分、多襄丸のことを、忘れてないんだと思うんです。
 だから、武広と多襄丸をふたりで藪の中に行かせ、自分はひとり残った。
 多襄丸が何をするつもりなのか、真砂なりに想像がついていたからだと思うのです。
 真砂は、おそらく、ひとり馬上で、待っていた。
 自分を奪って掠うために、多襄丸が、武広を、殺して戻ってくるのを。

 だから、多襄丸がひとり戻ってきたとき、真砂は市女笠を脱いだ。
 やっと一緒になれる。
 その気持ちが、笠を脱がせた。
 しかし。
 多襄丸は、おまえも一緒に来てくれと促してくる。
 どういうことなのか首をかしげながらも、真砂は多襄丸に手を引かれて、藪の中に入っていった。
「藪の中は汚れそうで入りたくない」は、あくまでも、多襄丸が用意した、世間一般的に納得されやすい建前でしかなく、真砂自身は本来そういうことを気にする女性ではないのだと思います。

 そしたら、武広は、縛り付けられてはいるが、まだ生きている。
 多襄丸は、武広を殺さず生かす選択をした。
 多襄丸の想定している「奪い方」には、武広を生かしておくことが必要不可欠だからです。
 しかし、そのことを知り、真砂は逆上した。
 真砂の想定していた「奪われ方」には、武広が死んでいることが必要不可欠だったからです。

 だから、真砂は、小刀を抜いた。
 そして多襄丸は、それを必死で押しとどめた。

 武広は、おそらくは、「自分と出会った時点で、真砂は生娘ではなかった」とは気づいていただろうと、私は思っています。
 しかし、真砂の過去の相手が、多襄丸だった、とは気づいていなかっただろう、とも、思っています。
 そして、そのことが、武広が多襄丸に縛られた、ということにも若干関係してくるとも思っていますが、それは後述の予定。

 ともかく、自分の妻と、この知り合ったばかりの男に、過去関係があったとは気づいていない。
 だから、真砂が自分を見た瞬間小刀を抜いたのを、そしてそれを多襄丸が取り押さえるのを、違和感なく黙って見ていた。

 真砂が手込めにされるまでの事実は、こういうことだったんじゃないか、と、私は考えているのです。


■武広が、最初は黙って見ていたわけ

 やっぱりここで、記しておいた方がいいような気がするので、記しておきます。
 ここからの内容は、かなり胸糞悪いので、読むなら自己責任でどうぞ。

 おそらくは、多襄丸の口車に武広がうかうか乗せられた、ということだと思いますが。
「古塚から掘り出した」という触れ込みの、実は多襄丸が盗み集めていた宝のもとに、多襄丸と武広のふたりきりで、向かった後。
 多襄丸は、武広に、「代金は、真砂を抱かせてくれることでも構わない。その場合は金子は要らない」と持ちかけたのではないか、と私は考えています。

 もちろん、このまま真砂を抱けば、後の夫婦仲に障りが生じるだろう。
 だから武広を、形だけ、縛り付けておく。
 そうすれば、武広も納得ずくだとは、真砂は思うまい。
 自分は一度抱かせてもらえればそれで満足だ。
 その後、心の広い夫として、慰めればいいじゃないか。
 多襄丸がそんな話を言葉巧みに武広に吹き込んだ結果、武広は、縛られることを受け入れたのではないか。
 これが、多襄丸と武広の間の、密約なんじゃないかと、私は思っているのです。

 まーろくでもないです。
 おそらくは真砂の、体だけでなく、その後心まで奪う様を、武広に見せつけるつもりの多襄丸も。
 そうとは知らず、おそらくは「どうせ生娘じゃなかったんだから」と、金子を惜しんで妻を差し出す選択をした武広も。

 もちろん、生きた武広を見た瞬間「何で殺してないのよ。びびってんなら私がやるわよ」とばかりに小刀を抜いた真砂は真砂で、相当ろくでもないんでしょう。
 しかし、多襄丸はともかく、真砂が、殺してやると思い詰めるほどの理由が、供述からでは読み取れませんし、「何か相当ひどい背景が、あったのかも知れない」と、思えれば、一応理解の範疇になるのでしょうか。

 以上が、藪の中に3人揃うまでについての考察です。
 続きは、次回以降。

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