無門関第十九則「平常是道」補足

 無門関第十九則「平常是道」について、もう少し綴ります。
 大筋は前回と同じ。そこから先の補足が今回の目的です。

 現代語訳はこちら。

 前回の考察はこちら。


 いわゆる「平常心へいじょうしん」と、「平常心びょうじょうしん」は、似てるようで違うらしい、ということを、前回書きました。
 その際、このことがまあまあわかりやすくなる事例として、「魅力的な異性と出会ったとき」のケースを挙げたんですが、これは、禅の周辺の逸話として残っているものらしい。逸話というか、公案? 出典は知りません。
 完全にうろ覚えですが、こんな感じ。

 和尚と弟子が、ふたりで歩いていた。
 川を渡る際、弟子が和尚を背負って渡った。
 そのとき、川の中で、ひとりの女性とすれ違った。
 その女性を見て、弟子は何も言わなかったが、和尚は「ええ女じゃのう」か何か言った。
 川を渡り終えた後、弟子は「色欲に囚われてはいけないはずなのに、どうしてあのとき和尚様は、あんなことを言ったのですか」と訊ねた。
 和尚はカラカラと笑って答えた。
「お前、まだ女を背負っておるのか」

 弟子は「平常心へいじょうしん」、和尚は「平常心びょうじょうしん」だった、ということでしょうね。
 この和尚さんは、おそらくこの時、弟子を導く目的で、わざとわかりやすく口に出したのでしょう。本当は言葉にしたときにはとっくに女のことなんて忘れてるんだと思います。
「まだ女を」ではなく「まだ荷を」だったかもしれない。その辺はどうでもいいです。

 で、ここまで考えてふと思ったんですが。
 南泉の言う「道」の極意は、「忘れること」なのではなかろうか。
 体が覚えている状態で、頭の方だけ忘れる、という感じ。

 そう考えて改めて公案の文章を読むと、なぞなぞのような不思議な文章が、なんかしっくり腑に落ちてくる感があるわけです。

 忘れよう忘れようと力んでいるうちは忘れることができない。
 ならば忘れるということは不可能なのか? いやそんなことはない。
「やったあ。忘れられた!」と思った瞬間、忘れたはずのことはきっと思い出されてしまっているだろうけれど、だからと言って「忘れるなんて不可能なんだ」と考えるのは、さすがにちょっと勿体ない。なぜなら決して不可能じゃないから。
 忘れよう忘れようとしているうちは忘れられない。
 けれど、もし、すぽーんと忘れることができたら、それはとっても軽やかな境地であろうよ。
 だから、まずは頭であれこれこだわるのをやめたらどうかね。

 というようなことが、書かれているのではなかろうか。
 なるほどな、という感じがしてきませんかね。
 こう考えると、評唱の和訳はやっぱり「南泉は体裁が保てなくなった」よりも「南泉は解きほぐし氷解させた」のほうがしっくりくる、とも思えます。小手先でごまかしてる感じの内容じゃないっぽいですし。


 ところで。
 公案に取り組む。その取り組み方は個人の自由でいいと思うんですが、ときどき、少々窮屈な感じのケースを目にすることがあります。
 何というか、「言葉を超えた真理」を探して、「見つかった。これが真理だ」と思う何かに出会えたら、その真理だけを常に●●用いて、公案、そして公案の形をした世界を斬って行かねばならない、と考えてるような、そんなケース。

 そういう万能包丁のようなものがあれば、便利そうだなとは思います。
 しかし、そういう発想の人って、公案の本則はともかく、評唱や頌を読むと、「このナイフでは切れないことが書いてある。これはこの本則に相応しくない」なんてことをしばしば考えがちな印象があるんですよね。あくまでもボンヤリした印象ですけど。
 そして「逆説的な賛辞だ」なんて考えたり、評唱や頌という名の瓶を蹴り飛ばして出て行ったりする。
(それがダメだと言ってるのではないですよ。そう受け止めるのが最適なシーンも勿論多々あると思います。そもそも評唱や頌は、乱暴に言えば無門の感想文みたいなもんなので、その内容を理解した上で「オレはそうは思わん」と感じるのであればそれまでの話かもしれませんしね)

 でも、先のお弟子や、常に●●こういう発想をする人の状態って、「平常心へいじょうしん」っぽい、と、私には見えるのです。

 第一則の表現で言い換えると、「『無』が有ると思っている」という状態に見えるわけです。

「言葉に囚われるな」を、「いつ何時も、言葉を使うことなく、真理を指針にして結論にたどり着くこと」だと考えている感じ。
 これが「いつ何時も、女に心を動かしてはいかん」と考える弟子のような境地だと仮定した場合、「平常心びょうじょうしん」における言葉の取り扱い方は、「まず、言葉を駆使して思考力をフル回転して物事を考え、結論に至った瞬間、頭を休めてゆったりふわふわした時間を味わう」ではなかろうか、という気がするのです。
 その思考が速くなればなるほど、傍目には「言葉を使わず一足飛びに結論に至っているように見える」だけで、よくよく観察すれば、言葉を使ってないわけではない、という感じです。

 現在の太極拳は、型の演舞を非常に遅い速度でやりますが、「拳」である以上は、あれもおそらく元々は格闘技だと思うので、あの型の速度をガンガン上げることが出来たら、「目にもとまらぬ神速で相手を倒せる拳の達人」みたいな状態になるのかもしれません。
 でもそれを見たとき「この人の放った拳、見えなかった」と思っても、「見えなかったってことは、きっと、この人本当は拳を繰り出してなんかいないんだ!」「出さずに倒せる練習をするべきなんだ!」と考えて、腕一本動かさずに対象物が倒れるように念じる訓練をしようとするのは、さすがに無茶でしょ?
 もちろん、最終的に本当に拳を出さずに相手を倒せるようになれるんなら、それはそれで楽ちんそうで大歓迎ですけど、いずれにしろ途中の過程は無視できません。
 この「拳」を「言葉」に置き換えて考えてもらったら、私の言いたいことが多少は伝わるかもしれません。

「忘れる」は「知らない」とは違います。
 忘れるためには、その前に、覚えて、体に染みつかせねばならんのです。
 潜在意識が忘れても、きっと、奥深いところで覚えてる。
 必要な時は、それを必要な分だけ思い出してもいいんじゃないですかね。
 思い出したら、また忘れりゃいい。
 無は無いと思うな。無は有ると思うな。
 多分、それだけのことです。

 どこか別の則で「言葉に囚われるのは良くないという枷は早めに外した方がいいと思う」と私が考えた理由の説明にも、多少はなったでしょうか。
 以上で、今回の補足を終わります。 

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