ある手品の記憶

 子供の頃の話である。
 私は居間で、母とふたりでテレビを見ていた。

 番組のタイトルはもう思い出せない。
 専業主婦向けの、午後の情報番組だったと思う。
 その番組の終盤で、スタジオ内で作られた料理を出演者が味わっていた、という部分だけが、かろうじて記憶に残っている。連日行われていた企画なのか、その日限りだったのかはわからない。
 一見、何の変哲もない料理企画。しかし、それは、通常の料理コーナーとは少々趣が違うものだった。

 料理の作り手が、手品師だったのだ。

 メニューは煮込み料理の類だった。カレーだったか、何だったか。大きな鍋がカセットコンロの上に置かれていた。
 手品師は、慣れた手つきで材料を切り分け、レシピの説明をしながら鍋に順次放り込んでいた。
 他の出演者数名は、その作業台の傍に集まり、その様子を楽しそうに見ていた。

 すると、手品師が、作業台の上に、卓上ギロチンを取り出した。
 野菜で「このギロチンはよく切れる」というデモンストレーションを行った後、手品師は言った。
「次に、手を材料として使いたいので、どなたかご協力をお願いします」

 出演者たちは互いに顔を見合わせ、「君が」「いやあなたが」などとしばらく譲り合っていたが、やがて、とある女優が手品師の隣に押し出された。
 女優は見るからに不安そうな表情で、恐る恐る手を出しては引っ込めるということを何度も繰り返していた。しかし、もう残り時間があまりないというようなことを言われ、意を決したような風情で、片手をギロチンの穴に差し込んだ。

 卓上ギロチンの手品は、「一緒に差し込まれた野菜は切れているのに、手や指は切れていない。不思議だ」となるのが、最もオーソドックスな展開だ。その際、アシスタント役は、わりとあっさりギロチンに手を突っ込む。
 そんな手品を何度か見たことのあった私の目には、この女優の嫌がり方が少々奇異に映った。

 すたん、とギロチンの刃が落ちた。
 切られた手首が卓上に残った。

 その手首を、手品師が鍋に入れた。
 その女優は、切られた方の手を押さえ隠しながら、他の出演者のひとりに肩を抱かれ、無言で足早にカメラに映らないところに引っ込んでしまった。

 手品師は、ひとつの手品を成功させたと言わんばかりの見得を切ることはなく、相変わらず淡々と調理を進めていた。
 そして、他の出演者も、そのまま見ていた。
 驚きの声も、叫び声も、感嘆の声も上がらなかった。
 表情も、全く変化がなかった。
 今入れたのは牛肉だったかと錯覚しそうになるほどの平穏さだった。

 できあがった料理を、手品師が皿に取り分けた。出演者がそれを食べ、「おいしいですね」などと感想を口にしていた。
 皆、ギロチンの手品の時より遥かに大きなリアクションだった。
 そのまま、エンドロールが流れ始め、番組は終わった。

 ごく普通の、料理コーナーだった。
 材料として「女優の片手」が鍋に入ったこと以外は。

「あの人、大丈夫なの?」と訊ねた私に、母は、何を当たり前のことを訊くんだと言わんばかりの口調で「大丈夫よ」とだけ答えた。
 あれは手品なんだから、大丈夫。
 血だって一滴も流れなかったし、みんな何も驚いてなかったし、大丈夫。
 幼い私は、自分にそう言い聞かせた。

 私は、手品が好きだ。
 コミカルなものも、魔法のようなものも、壮大なイリュージョンも。
 鮮やかなテクニックを堪能できるクローズアップマジックが、最近は最も好きだ。
 タネには全く興味がない。タネにしか興味がない人のことは無粋だと感じる。
 ただそれは「知ったらつまらなくなるから知りたくない」というのとは少し違う。タネを知りたいという気持ちなど微塵も起こる余地がないほど、あるいは、タネがそこにあると知っていてさえ、魔法のような不思議な現象に心を奪われる、一流の手品師は、そんな感覚を味わわせてくれる。

 しかし、「今からマジックをします」という前置きが入り、最初から最後まで絶え間なく奇術が繰り広げられ、観客が思い思いに驚きの声を上げている、そんな舞台を見ると、その夢のような時間を堪能しながらも、ときどき思い出すのだ。
 さほどの前置きもなく淡々と切られ、一切の驚嘆も感嘆も賞賛もないまま、鍋の中に溶けていった、あの白い手を。

 日常の中に白昼夢のように現れ消えた非日常の、得も言われぬ、不安と恐怖を。


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