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哀しきイルミネーション

街には少しずつ、年の瀬の空気が漂う。

指先の感覚がなくなる。吐く息が白く光る。凛と張り詰めた冬の冷気は、孤独でいることを許さないかのように時折厳しい。

この時期は、「クリスマスをどう過ごすか?」なんて話題を出すと会話を弾ませやすい。でも同時に、"クリスマスは素敵な日にしなきゃいけない"という観念から僕たちが決して自由ではないことを悟ってしまって、どこか物悲しくもある。

子どもの頃のクリスマスは、夜明けと共にプレゼントがもらえる不思議な日で、家でケーキなんかを食べる温かい日だった。とにかく心躍る神秘が自分を待ってくれていた。

それがいつから"恋人と過ごすべき日"になったんだろう。強迫観念にも似た、根拠のない意味付けに、いつからこれほど気を取られるようになったんだろう。

街を歩けば、そんな切ない気持ちをイルミネーションが増幅させる。どこかの誰かがクリスマスを楽しくするために設置してくれたに違いないから、その気持ちはありがたくいただくとして、でもイルミネーション自体はやっぱり苦手だ。

イルミネーションを綺麗だとは思う。

それと同じくらい、暴力的だとも思う。

イルミネーションといえば、夏目漱石に『虞美人草』という小説がある。新聞小説作家としてのデビュー作だ。

蛾は燈に集まり、人は電光に集まる。(略)閃く影に躍る善男子、善女子は家を空しゅうしてイルミネーションに集まる。
文明を刺激の袋の底に篩(ふる)い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる。苟しくも生きてあれば、生きたる証拠を求めんが為めにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気が付く。

上野公園で、男女数人で博覧会を見ている場面から引用した。

文明の民は麻痺している。麻痺しているから、新しい光が欲しくなる。そして光に照らされた「小夜子」という女性の顔を見て、ヒロイン「藤尾」が嫉妬する、という展開だ。

男女間で社交が生じる機会が少なかった当時、博覧会は出会いの場でもあったらしい。まさにイルミネーションの光が顔を照らしてくれるおかげで、男たちは女性の「品定め」ができる。

そうか、100年前から、その光は色恋沙汰と共にあったわけだ。

もうひとつ。博覧会には「台湾館」という建物があった。戦争に勝って手にした様々な文物を展示するところだ。「光」としての日本が、「闇」である植民地を照らしていく。そんな構造の中にイルミネーションも組み込まれていた。

そう思うと、「Illumination」って単語に「啓蒙」の意味があることも納得できる。明るいことが正義。ちょっと発展させて言えば、「白人」こそが正義、なんてイデオロギーにもつながりうる話。

さすがにイルミネーション自体が即座に帝国主義時代の日本を想起させるとは言わないけれど、でもそういう歴史があることは確かなのだ。

別に暗いところは暗いままでいいのに、なぜ照らしたがるんだ、と言いたくなる。

……と、イルミネーションを見るたびにこんなことを思う。こういう面倒な思考回路を獲得したことが幸いなのかどうか、今の自分にはまだ判別できない。

こんな男を見て、サンタクロースは笑うだろうか。



あとがき:
自分の学科の同期で繋いでいる、国文アドベントカレンダーへの寄稿(第2弾)です。
今回はアカデミックな感じを前面に出さずにエッセイ風を試みました。
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