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とりあえず、生きてて

僕のまわりではそれなりのスピードで人が死んできた。

勝手な仮説だけれど、「近しい人が死ぬ」ことを経験すると想像力の限界値が少し上がる。

初め、僕はとても驚いた。「そうか、人は死ぬのか」と。ニュースや漫画では知っていたけど、そうか。人って本当に死ぬんだな。エレベーターの中、幼い自分は到底そのことを受け止めきれず、ただいつまでも泣きじゃくることしかできなかった。

何もかもがごちゃまぜだった。悲しいから泣いていたのではない。そもそも「悲しい」なんて思う暇はなかった。ただ泣いていた。なんだかよく分からないけれどいくらでも泣けてしまうから、いくらでも泣いていた。

「死」なんて概念はまだまだ遠いものだと思っていたのに、ある日突然、絶大なリアリティを持って襲ってきた。

こうして想像力は何倍にも膨れ上がる。

「人は死ぬ」という極地まで。

家に帰ったら、物陰に殺人鬼が隠れているかもしれない。次の瞬間にはナイフが自分の鮮血を纏って息の根を止めるかもしれない。

なかなか家に帰ってこないあの人は、今ごろ事故に巻き込まれているかもしれない。救急車の音がすると不安でたまらない。胸の奥がかきむしられる。鼓動のスピードが上がる。さっき言った「行ってらっしゃい」が、最後の言葉になるかもしれない。

とはいえ。「明日死んでもいいように」なんて生きられるわけがない。

口では言ってても、実際そんな風に生きるのは至難の業だ。家族だってまだ遺言書なんか書いていない。僕だって、死ぬ前に焼却処分しなきゃな、と思っている恥ずかしい日記が山ほどある。

僕らはどうして どうして 鼓動の数に
限りがあるってのを知っていて ムダにしちゃうんだろう
——スキマスイッチ『星のうつわ

ここ数年、この歌詞のことを思いながら生きている。

人が死ぬということは、観念でなく情緒の話。そして、死ぬ側というよりはむしろ、死なれる側の話だと思っている。宗教観にもよるけれど、つらいのは遺された側だ。

なんで今日こんな話になったかというと、今年はたぶん、死の気配がいつもよりも色濃く、すぐ近くまで迫ってくる年になるから。不必要に煽るつもりはなくとも、いまニューヨークで起きているようなことを他人事だと言いきる自信はないから。

少なくとも自分は、家族も友人・知人も、これを読んでくれている人も、死なせるつもりはない。家にいるとか手を洗うとか以外に何か決定的なアクションができるわけではなくとも、そういう気持ちでいる。

そういう気持ちの積み重ねでやっていくしかない。粛々と。「最後の日」を迎えるにはまだ早すぎるから。


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