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抑鬱傾向へのセラピー。3月、社会的活動を停止することについて

突然ですが2019年3月は社会的活動をやめます。具体的には、「何日までに〇〇をやらなきゃ!」との意識が生じうる予定をほぼ一切入れません。もちろん他の人に迷惑のかからない範囲で。

サークルは先日引退したから特に影響はないはず。ライターの仕事は基本的に好きなのでやりたいけれど、「今動いてる案件が終わったら、今月は取材を入れない」という固い決意をしないとダメな気もしています。悩んでいるところ。

なんせ、3年ほど抱え続けたフラストレーションに1ヶ月で決着をつけようって話。

今回のnoteは過去に例を見ない「自分語り」になります。時間のあるときにでも読んでいただけると幸いです。

(以下、敬体→常体で。)

1.宅浪という不完全な成功体験

このnoteに整合性を持たせるには、2015年までさかのぼる必要がある。しばしご容赦願いたい。

まず高校3年生のとき、3点差くらいで東大に落ちて浪人をした。進学校にありがちだが、都立西高もご多分に漏れず卒業生の50%くらいが浪人である。

予備校には行かなかった。「まわりが呪文のように予備校予備校とばかり言っていて気持ち悪い」「家計への経済的負担を減らしたい」「満員電車がやだ」とさまざまな理由があったが、宅浪を選んだ一番の動機は「成功体験を作りたい」というものだった。「予備校の手を借りずストイックに勉強して東大に受かれば、きっと自己肯定感も得られるだろう」との目論見である。

ただ、結論から言うとそれは完全に失敗した。合格こそしたものの上記の「ストイック」の部分を欠片ほども達成できていない自覚があったからだ。まわりからの「合格おめでとう」の言葉は自分の心を壊す呪詛に聞こえた。目標に届かなかった自分への失望に加えて、まわりの祝福を素直に受け入れられない不孝者としての自己否定感が好き放題に育った。

「大学合格が『おめでたい』だなんて勝手に決めんじゃねえよ」

理想の高い完璧主義者。ただし完璧にできるほどの能力はない。この自分の性質を手ひどく思い知らされた僕にとって、宅浪の一年間は「不完全燃焼な成功体験」として刻まれることとなった。

2.2016年以降の精神状態悪化の原因を考えた

しかし体験というものは次第に美化されていくものだ。あれほど忌んでいた宅浪生活を、今度はうらやむようになった。なぜなら大学生活においては「自由な時間」が少なすぎたから。もちろん僕より忙しい人なんていくらでもいるけど、自分の基準に照らせば十分に辟易するレベルであった。

やがてこう思うようになる。「ダメなりにまだ一応頑張れていた宅浪時代に比べて、今はただひたすらダメなだけじゃないか」。ここにおいて過去の栄光が足枷あるいは呪縛へ転じた。

もちろん友人との交流やサークル活動などは楽しい。でもそれはいわば刹那的な充実だ。「どこどこへ旅行に行った」「企画を成功させた」「プレゼンがうまくできた」、それ自体は貴重な経験かもしれないが、自分個人の知力・体力は退化の一途をたどっているのを肌で感じていた。

僕は刹那的に生きることができない。人からの誉め言葉を自己肯定感に変換するのも下手だ。それができたらどんなに楽だろうと思う。内向的な充実とでも言おうか、ひとり勉強やトレーニングをすることでしか精神的な膿を抹殺できない。

その膿は3年間、今に至るまで、誰のせいでもなく、ただ泥のように蓄積され続けてきた。

3.抑鬱の傾向

大学入学くらいの頃からTwitterを見てくれていた人なら分かるかもしれないが、基本的に僕は精神状態がよろしくない。未成年飲酒は死罪にすべきだとか、特に当時はいろんなものにネット空間でもリアルでも毒づいていた。

素人なりに、なぜ精神が安定しないのか考えた。

まず根本的に、マルチタスクができない。なおかつON・OFFの切り替えや、複数タスクにおける切り替えが苦手。やるべきことをすぐ先延ばしにする。これはおそらくADHD的な傾向だろうと判断がついた。

(念のため注記すると、この場合「実際にADHDの診断が出るかどうか」はわからないし、問題ではない。少なくともそういう「傾向」にはあるのだと自己認知することが精神医学的にも重要である。)

事実、いろいろ抱え込みすぎたときにはちょっとした動悸が生じ、パニック障害の一歩手前みたいになっていたこともある。そういうときは同時並行で進める意識を捨て、個々の「シングルタスク」として処理することで一応は事なきを得ている。

また、これも「傾向」の話になるので滅多なことは言えないが、どうも慢性的に抑鬱っぽい傾向がある。

たとえば上のほうに書いた「東大に受かったけど全然嬉しくない」、これは精神科医アーロン・ベックの言うところの「選択的注目」というやつで、物事のネガティブな方面ばかり見てしまうような認知の歪みが生じていると分かる。他にもいろいろ思い当たる節があったので、「あっ、これはまずいぞ」と2017年くらいから思い始めた。

だいたいマルチタスクはできないくせに、興味の方向だけは多方面に乱れ飛んでいるから厄介だ。「やりたいこと」を勝手に「やるべきこと」と認知してしまい、結果、不完全燃焼による精神的ダメージを負い続ける。フグが自分の毒で死ぬみたいなことをしている。

どこかでこの消化不良の連鎖を断ち切る必要がある。なら、この3月しかない。そう思った。

4.アットホーム・セルフ・ライティング・セラピー

なにかの用語っぽく書いたけど今2秒で考えた造語である。

なんだかんだ考えて、あらゆる不調の原因は「完璧主義ゆえの消化不良」にありそうだと結論した。それってたとえば「日本史の勉強もう一度ガッツリやりたいのにできてない」「家にある積読本を消化したいのにできてない」「更新されまくるジモコロ記事を全然ちゃんと読めてない」とかそういう話なのだ。

じゃあその「やりたいこと」を全部やれば解決するだろうと思い、まず「家で好き放題やりたいことをやる」ことにした。

で、「ライティング」のほうはと言うと、まさにこのnoteなんかのことだ。何か頭の中でモヤモヤしているときは書いて整理してみるのがいい。これは心理学的にも根拠があるらしい。日記は2014年から欠かさず毎日つけてるからまあ書いてはいるんだけど、noteで書けばとりあえず「何かしら生産してる」的な気分になれるので、やる。書きたいこといくらでもあるし。

例に出すのはおこがましいけれど、夏目漱石『吾輩は猫である』の執筆は、当時ロンドンから帰ってきて精神的な危機を迎えていた漱石にとって一種の自己セラピーでもあったと言われている。自分たちをモデルにした人物を戯画化して書くことによって、自分の神経衰弱に対して距離をとれた。つまりは自己を客観視していく運動としても功を奏した、と。

精神的につらい人は、猫を主人公にした文章を書いてみればいいのかもしれない。

5.結論

……という感じです。ふだん言わないようなこともけっこう書けた。読んでくださってありがとうございます。スクロールして一瞬でここに辿りついた方だとしてもありがとうございます。

まあつらつらと書いてきて、生活様式が殊更大きく変わるってこともないのですが、3月は通常以上にナゾの引きこもり期間みたいなのが多くなるかもしれません。でもちょこちょことタスクを消化したり、遊びに行ったりはします。なので結局そんなに変わらない気がする。

まとめると「生活としては何も変わらないけれど、いろいろ集中して頑張る」です。28文字でまとまってしまった。なんだったんだよこのnote。

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