張りぼての鎧、手放して裸
プロボノでレポートやコラムを書いていた頃、自分の書くことが誰かのアクションに繋がることが嬉しくて、もっと書きたいと思うようになった。自分が取材を受ける機会を得て、当時自分では言語化できていなかった、心に泳いでいた想いを彫り出すように書いてもらったことで、衝撃に近い喜びを体験したことも影響しているだろう。書く仕事を受けるようになってから、語弊を恐れずにいうと、張りぼての自信や自負を鎧にしてやっているような感覚をどこかで持っていたし、意識的にそう自覚すべきだと思っていた。だけどーーときどき頭に浮かんでくることがある。
できる、という確信は挑戦に必要なのか
できるかどうかを判断するのは誰なのかーー私ではない
仕事の上では自分の得意なことをやっていたい、ずっとそう思っていた。できるようになってから次のステップに行く。跳び箱5段を飛んでから6段を飛ぶ、当たり前のように段階を踏んできた。できないことに挑戦することは、できない自分と向き合うことから始まる。
ダンスをやっている頃、ずっとやっていたHIPHOPは楽しくてしょうがなかったけど、JAZZの時は鏡の中のかっこ悪い自分を認めるのが嫌だった。でも、私はJAZZを踊りたいから踊り続けた。ダンスではずっとそうやって前進してきたのに、仕事になった途端、どうしてできる範囲の挑戦に留めていたのだろう。
書くことを始める4年前のこと。情報通信業での一般事務、営業事務から商品開発に憧れて32歳で食品製造業へ。商品開発の前段階、品質管理業務を理解せぬまま飛び込んだ世界は、とにかく辛かった。苦手な理系の分野、不器用ながら0.01gの世界で正確な食品分析(=実験)をひたすらこなす日々。周りの人はゆっくりできるようになればいいと言ってくれていたけれど、品質管理はみんなが真剣に製造している商品の出荷に影響するし、会社にとっても重要な管理項目。絶対的に正確でなくてはいけない、と日々自分を追い込んでいた気がする。正確性とスピード感、二つのプレッシャーがのしかかり、毎日しんどかった。東京から地方へ引っ越し、ゆるやかな生活でもなんでもなく、むしろ自分にとっては挑戦だけの毎日。「できない」の連続でしんどい、楽しくない、東京に帰りたいと思っていた。
当時の上司に、「社会人になってからずっと得意な業務をやってきた、こんな風にしんどいのは初めてだ。うまくできないこと、分析が遅くて周りに迷惑をかけていることがしんどい」とこぼしたことがある。上司は「それでも商品開発がやりたくて、これが今やりたい事なんだろう。できないことに挑戦しているんだからしんどいのも、できないのも当たり前」とそっけなく励ましてくれた。
先輩たちのように上手くできないといつも思っていたけれど、ゼロから挑戦しているんだ、当たり前じゃないか。勝手に背負っていたプレッシャーたちが、私から少し離れていく。結局最後まで不器用だったけど、未経験から分析一式をこなせるようになっていた(と思う)。最中はずっとしんどかったけど、過ぎてしまえば自分が歩んできた道の一部でしかなく、他の経験と同等に並んでいるから不思議だ。
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この数カ月、未知の領域でも「チャレンジングですがやりたいです」と飛び込んで書いてきた。出来不出来もわからぬまま、誰かの力を借りながらやってきたことばかりだと思う。
書く仕事を受ける時のできる、できないって何だろうと考えた。やったことがないことはできるかわからないができる可能性があり、やったことあることでもそれが「できて」いるのかは自分で評価し難いところがある。これは自分がやりたい事だ、と思うことを引き受けてやりきり続けることしかできない。書いたものが良かったかどうかを見てもらう、その成果物を作り続けるしかない。とは思っても、ときに「これはできないかもしれない」と思う仕事もある。その、根拠のあるようでないような感覚は、「できる」に変える自信の有無なのかもしれない。じゃあその自信の正体とは…実体なんてない。
書くことで挑戦がある度に、私は張りぼてのような自信を鎧にしている、と思っていた、思うようにしていたが、実は地の自分と挑戦だけがあった期間なのかもしれない。それを受け止めて機会をくださった方々に心から感謝しているし、お応えし続けていけるよう、今日もじたばたしながら書いている。
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