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ちいさいシマリス

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昭和の子供はこんなんでした。
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#毎日note

世界の始まり、海のある小さな町

宮崎県の青島 ここに住んだのは人生の最初の何年かだけだけど、自宅の周りの風景も学校までの道のりも、ピアノ教室やお寺の幼稚園までの風景もよく覚えている。 不思議なものでこの町を引っ越して、その後高校卒業まで暮らした海から遠い町のことはところどころしか思い出せない。 小さい頃に見たものや食べたもの、経験や感情などは”人生で初”のものだからだろうか、私の記憶の中の青島はとても鮮明だ。その後に似たような経験をしてもそれが何度目かであり繰り返したものであるので強い印象がないのだろ

南国のすごく美味しいもの、ボンタンアメ

ボンタンアメをひとつ握りしめている。 あまり早く食べてしまうともったいない。 でも美味しいので早く食べてしまいたい。 長く手に持っているとオブラートが溶けてしまう。 次のトンネルが来たらこれを口に入れよう。 小学一年の夏、宮崎の田舎から1時間ほど離れた別の田舎まで、土曜日にひとりで汽車に乗っていた。母方のじいちゃんが国語の教師、高校の校長先生を退職したのちに自宅で習字教室を開いており、そこに通っていたからだ。 学校が半ドンで終わると、駅近くにある父方のばあちゃん家で急いで

いやしんごろの田舎の子供

ぐみの実 つわぶき アケビ ヤマモモ ざくろ さくらんぼ 柿 栗 小みかん キンカン びわ サトウキビ ミナ(小さい巻貝) 小エビ 小さい頃にそこらへんの山やら庭やら浜やらで採って食べていたものです。 ぶらぶら帰り道に食べたのもあれば、持って帰って母や祖母に料理してもらったものもあります。 今思えば、昭和の田舎の子供はラッキーでしたね。 ちょっと山を探検したらヤマモモやらアケビがお腹いっぱい食べられるんですから。 おばちゃーん、ちょっとみかん食べていい?と誰かの庭に入れば

フォークの日に:私を作った音楽

子供の頃は自宅での”音楽権”はもちろん親が持っていた。子供の私は彼らがかけるレコードを聴いているしかなかったわけで、意図しなかったであろうがその時代のフォークやポップスはしっかりと刷り込まれている。3歳ごろには母に連れられてイルカさんや南こうせつさんのコンサートにも行った。ぐずりもせずにお利口に音楽を聴いていたと母が言っていた。 自分で音楽を選ぶ様になったのは中学に入ってから(アルフィーさんです)でそれ以降はあっちやらこっちやらでいろんな音楽を聴いてきたが最近になって自分は

叩く理由

私の両親はしつけをする時に叩いたりつねったりする事はなかった。その当時にすれば珍しい事だったのかもしれない。父ちゃんのゲンコツが飛んでくるとか、お母さんに頭をポカンとやられる、とかはよく聞く話だった。 小さい頃から私は割と良い子だったし、年の離れた弟もやんちゃだったけれど、悪い事はしなかった。母に話しを聞いても “シマも弟も2、3歳の頃にレストランに連れて行っても立ち上がったり騒いだりせず、お利口に座っていた”と言う。 そんな良い子だった私は、多分悪い事をして叩かれたのは一

赤と青のオランガタンの世界

昭和の子供だった私は毎日NHKの "みんなのうた" を楽しみにしていました。 多分見ていたのは、せいぜい中学校に上がるくらいまでだと思いますので、物心ついたころから7−8年くらいは見ていたのかな。実際NHKのページで見てみると80年代中期以降は全く知らない歌ばかりですが、70年代から80年初頭は忘れていた曲もタイトルと絵で思い出すものがたくさんあります。 今でもフルで歌える曲もたくさんあります。幼少期に毎日毎日聴いて刷り込みされたのですね。 その中で大人になって口ずさみなが

やっぱり宮崎じゃった

自分の故郷、hometown、はどこなのかなとあらためて考える機会が今日ありました。ほとんどの方は生まれた町、育った町、帰る町、を故郷と呼ぶのではないでしょうか、でも私はそれぞれ違う町がその場にあてはまります。 わたしの生誕の地は宮崎でしたが、実際そこに住んだのは小学校3年生くらいまでで、そのあとは宮崎県内の違う市で高校卒業まで過ごしたのでいわゆる”成長の場”は県南部の小さな町。そのあとは東京の大学へ進学して、それ以降は海外のあっちこっちです。親戚一同はまだ宮崎におりますが

幼い日の夢を叶えるお菓子

明日は遠足!お菓子はひとつだけ、2ドル以内!と言われたら持っていくものはこれです。ハリボーサワーキューブス! グミなのですが、ハリボーシリーズのように弾力はなく、求肥とゼリービーンズの中間のような食感です。昔おばあちゃんちにあったオブラートに包まれたゼリー菓子がちょっと固くなったような。 昔からグミが大好きで、どこか遠出をする時に、授業の合間に、帰りの車の中で、ぽいっと口に入れられるように必ずバッグに入っていました。 ここ何年も私のイチオシはクマでも、コーラでも、フルーツ(

主人公はわたし:はてしない世界を追うきっかけをくれた本

大人になると本を読むのが仕事や義務になってしまうことがあり、なかなか自分にピッタリな良書に巡り合うことが少なくなってきますよね。もう長いこと生きていますが(笑)わたしにとってのナンバーワンの本はいまだにもう35年以上前に読んだ はてしない物語 です。 子供時代は本を読むのが好きで、空を見ては木を仰いでは水を弾いては違う世界に迷い込む空想が好きだったわたしにとって はてしない物語 は衝撃でした。 ここでネタバレしてしまうとこれからこの本を初めて読む羨ましい人から、この本を読

ピーナッツバターのトースト

私にとってのピーナッツバターは紙のカップに入った甘いやつです。 メーカーはアヲハタだったのか・・・画像を探してみたけど見つかりませんでした。昭和に子供だったみなさんには あーあれか、とわかるのではないでしょうか。正式にはピーナッツクリームでした。 小学校の5、6年だと思うのですが、母と二人暮らしだったそのころの朝ごはんはトーストにピーナッツバターと牛乳にほんのちょっぴりインスタントコーヒーを混ぜた、カフェオレとは言い難いほぼホットミルクのようなものでした。 他のものも食べ

人喰い犬の屋敷

かっちゃんとコーちゃんとサムー、3人の男の子が我が家の駐車場に自転車をキュッと止め、大きな声で叫ぶ。 シーーマーーちゃーーーーーん! 私は半ズボンを履いて帽子のあごひもを留め、水筒を斜めにかけて勢いよく飛び出す。 3人の顔を交互に見ると彼らが “俺の後ろに乗れよ”と自転車の荷台をポンポンしてくれる。今日はかっちゃんの後ろにする、かっちゃんは体も大きいしビュンビュン漕げるし、コーナーをぎゅーっと曲がるのもうまいから。 小学校3年生にはちょっと大きすぎる自転車に二人乗りで

遠慮する子どもの行く末

わたしは小さい頃から人の顔色を伺い、周りにとって一番望ましいと思われる行動や発言を取る人間だった。誰かの様子を見て覚えたのか、そう躾けられたのか、それともそれが美徳とされる小さな文化圏に生きて来たからなのかはわからない。 ただなんとなくそうしてきた。 何かが得意だとか、上手にできるとか、秀でているとかを大きく言わない方が良い。 時には自分以外の誰かを花形にしてあげるために、努力して来たこと、能力があることを隠してもよい。 そんな風に生きて来た。 ピンクレディーの振り付け

幽霊裁判:敗訴2例

小学校高学年のころ住んでいた家は大きな病院のすぐ目の前だった。 夕方薄暗くなってからは、その病院の入院棟の前の小さな道はちょっと怖いくらい静かで、まだ早い時間、6時とか7時とかでも、しんと静まり返った古いコンクリートの大きな建物を通り過ぎる時は自然と早足になった。 ある夕方私はその道を歩いて家に帰る途中に、建物の外に立ち、窓枠に手をかけて中を見ている白っぽい人間を見た。一瞬よりももっと長く見たが、ちょっと怖くなって確かめることもなく走って逃げた。 確かめる、とはそれが生身の

鬼とじいちゃんと節分

じいちゃんは、お酒を飲んで気に入らないことがあれば、窓からコップやら小皿やらをパーっと投げ捨てる。そうなるとテレビを見ている私といとこのゆりちゃんは二人で奥の部屋に引っ込まないといけない。子供を怒鳴るわけでもないし、手をあげるわけでもないが、 “もう、こんげなん料理は食わん!” と大きく自己主張する老人は見ているだけで怖い。 ばあちゃんはその日のうちに壊れたコップやら皿を取りにはいかず、次の朝までそのままにしておく。じいちゃんが朝起きて、昨夜と同じ場所に座ってお茶を飲む時に