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宮崎県の青島 ここに住んだのは人生の最初の何年かだけだけど、自宅の周りの風景も学校までの道のりも、ピアノ教室やお寺の幼稚園までの風景もよく覚えている。 不思議なものでこの町を引っ越して、その後高校卒業まで暮らした海から遠い町のことはところどころしか思い出せない。 小さい頃に見たものや食べたもの、経験や感情などは”人生で初”のものだからだろうか、私の記憶の中の青島はとても鮮明だ。その後に似たような経験をしてもそれが何度目かであり繰り返したものであるので強い印象がないのだろ
レモンケーキ、と聞いてあなたはどんなケーキを想像しただろうか。 夫の母親はイタリアからの移民で、イタリアの味を大切に継承しており、普段のお呼ばれにはパスタとメインのコースの後にはイタリアンなデザートが出る。 その中の一つがレモンチェッロケーキだ。レモンレモンしている。(*アメリカ東在住です) 料理上手な彼女が作るレモンケーキにはレモン汁がたくさん入っており、その上にかけられたちょっとザラザラしたクリームにもレモンチェッロというレモンのリキュールが入っており、追い討ちをかけ
幼稚園に上がった頃、じいちゃんとばあちゃんの家があった敷地内に両親が小さな家を建てた。あまり詳しいことはわからないけれども、多分両親が建てたのではないと思う。まだ20代前半で小さな子(私)がおり、じいちゃんが経営する店で二人とも働いていて一体いくら給料が出ていたのか、それとも出ていなかったのか、わからないが、とにかく一戸建てを建てるような余裕は宮崎の小さな町でもなかっただろう。 裏には草ボーボーの”裏庭”があり、そこを抜けてひと一人通れるくらいの小さな抜け道を通るとちょっと
じいちゃんは、お酒を飲んで気に入らないことがあれば、窓からコップやら小皿やらをパーっと投げ捨てる。そうなるとテレビを見ている私といとこのゆりちゃんは二人で奥の部屋に引っ込まないといけない。子供を怒鳴るわけでもないし、手をあげるわけでもないが、 “もう、こんげなん料理は食わん!” と大きく自己主張する老人は見ているだけで怖い。 ばあちゃんはその日のうちに壊れたコップやら皿を取りにはいかず、次の朝までそのままにしておく。じいちゃんが朝起きて、昨夜と同じ場所に座ってお茶を飲む時に
小さい頃の夢は何でしたか、と聞かれればお嫁さんになりたいだの看護婦さんになるだの、野球選手になるだのと職業的な何かを思い浮かべると思う。 私が4歳か5歳のころの夢はそんな遠い先の話ではなく、できれば翌日にでも叶えたい夢だった。それは・・・・ うなぎをお腹いっぱい食べたい まだ幼稚園の頃、生まれて初めてうなぎを食べた。うな重だったと思う。ピカピカツヤツヤの蓋がしてある容器を開けると、ピカピカツヤツヤの蒲焼きがピカピカツヤツヤの白いご飯に乗っていた。香ばしく、甘い匂いに私は
小学4年か5年のときに、クラス内の男子何人かが ”好きの順位” というランキング表を毎週作るようになった。記憶では週中の水曜の昼休みに発表だったような気がする。35人ほどのクラスは男女半々なので約17人の女子がトップ5に入れるかどうかを固唾を飲んで待っていたのを覚えている。 全ての男子がランキングをつけるわけではなく、スポーツが出来たり勉強が出来たり、背が高かったりハンサムだったりのいわゆる 人気者 の男子だけである。 子供とは恐ろしいもので、その日かその週かもしくはその
*この、”芸術は爆発だー” と叫んでいるであろう赤子は私です(若い人は知らないか・・・)。 日本を離れて30年の間、私は家族と誕生日のお祝いをしたことは1度か2度ほどしかない。というか、日本にいた間も誕生日パーティーなどをした記憶はほとんどない。高校を卒業するまでは両親は共働きで忙しかったし、しかもお盆の初日なので友達も田舎に帰っていたりして周りには誰もいなかった。親戚一同が集まっても話題は私の誕生日ではなく、ご先祖様のことばかりで、お盆にふさわしい料理がテーブルいっぱいに
ボンタンアメをひとつ握りしめている。 あまり早く食べてしまうともったいない。 でも美味しいので早く食べてしまいたい。 長く手に持っているとオブラートが溶けてしまう。 次のトンネルが来たらこれを口に入れよう。 小学一年の夏、宮崎の田舎から1時間ほど離れた別の田舎まで、土曜日にひとりで汽車に乗っていた。母方のじいちゃんが国語の教師、高校の校長先生を退職したのちに自宅で習字教室を開いており、そこに通っていたからだ。 学校が半ドンで終わると、駅近くにある父方のばあちゃん家で急いで
ぐみの実 つわぶき アケビ ヤマモモ ざくろ さくらんぼ 柿 栗 小みかん キンカン びわ サトウキビ ミナ(小さい巻貝) 小エビ 小さい頃にそこらへんの山やら庭やら浜やらで採って食べていたものです。 ぶらぶら帰り道に食べたのもあれば、持って帰って母や祖母に料理してもらったものもあります。 今思えば、昭和の田舎の子供はラッキーでしたね。 ちょっと山を探検したらヤマモモやらアケビがお腹いっぱい食べられるんですから。 おばちゃーん、ちょっとみかん食べていい?と誰かの庭に入れば
子供の頃は自宅での”音楽権”はもちろん親が持っていた。子供の私は彼らがかけるレコードを聴いているしかなかったわけで、意図しなかったであろうがその時代のフォークやポップスはしっかりと刷り込まれている。3歳ごろには母に連れられてイルカさんや南こうせつさんのコンサートにも行った。ぐずりもせずにお利口に音楽を聴いていたと母が言っていた。 自分で音楽を選ぶ様になったのは中学に入ってから(アルフィーさんです)でそれ以降はあっちやらこっちやらでいろんな音楽を聴いてきたが最近になって自分は
私の両親はしつけをする時に叩いたりつねったりする事はなかった。その当時にすれば珍しい事だったのかもしれない。父ちゃんのゲンコツが飛んでくるとか、お母さんに頭をポカンとやられる、とかはよく聞く話だった。 小さい頃から私は割と良い子だったし、年の離れた弟もやんちゃだったけれど、悪い事はしなかった。母に話しを聞いても “シマも弟も2、3歳の頃にレストランに連れて行っても立ち上がったり騒いだりせず、お利口に座っていた”と言う。 そんな良い子だった私は、多分悪い事をして叩かれたのは一
昭和の子供だった私は毎日NHKの "みんなのうた" を楽しみにしていました。 多分見ていたのは、せいぜい中学校に上がるくらいまでだと思いますので、物心ついたころから7−8年くらいは見ていたのかな。実際NHKのページで見てみると80年代中期以降は全く知らない歌ばかりですが、70年代から80年初頭は忘れていた曲もタイトルと絵で思い出すものがたくさんあります。 今でもフルで歌える曲もたくさんあります。幼少期に毎日毎日聴いて刷り込みされたのですね。 その中で大人になって口ずさみなが
自分の故郷、hometown、はどこなのかなとあらためて考える機会が今日ありました。ほとんどの方は生まれた町、育った町、帰る町、を故郷と呼ぶのではないでしょうか、でも私はそれぞれ違う町がその場にあてはまります。 わたしの生誕の地は宮崎でしたが、実際そこに住んだのは小学校3年生くらいまでで、そのあとは宮崎県内の違う市で高校卒業まで過ごしたのでいわゆる”成長の場”は県南部の小さな町。そのあとは東京の大学へ進学して、それ以降は海外のあっちこっちです。親戚一同はまだ宮崎におりますが
明日は遠足!お菓子はひとつだけ、2ドル以内!と言われたら持っていくものはこれです。ハリボーサワーキューブス! グミなのですが、ハリボーシリーズのように弾力はなく、求肥とゼリービーンズの中間のような食感です。昔おばあちゃんちにあったオブラートに包まれたゼリー菓子がちょっと固くなったような。 昔からグミが大好きで、どこか遠出をする時に、授業の合間に、帰りの車の中で、ぽいっと口に入れられるように必ずバッグに入っていました。 ここ何年も私のイチオシはクマでも、コーラでも、フルーツ(