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I Recall, Therefore, I Am

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山あり谷ありの海外生活。今思えば毎日が自分を作る・伸ばすチャンスの場でした。チャンスをつかんだこともあれば、逃したこともある。そして今振り返ってやっと”あれがチャンスだったんだ”… もっと読む
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2021年3月の記事一覧

日・米・中3カ国またにかけたA-ha!

アメリカでの博士課程の途中で、どうにもパンクしそうだった私は、あんまり何も考えずに中国で英語教師の職を見つけてアメリカを出た。 1年のつもりで来たけれども、結局は5年以上も中国に住んだ。 その暮らしの中で、些細なことだけれど頭の上にピーンと電球が光るような 💡はーーーーそうかーーーーー💡 と、点と点がつながる一瞬が何度かあった。 一昔前に流行った A-ha体験のようなものだ。 最初は中国語をまだ本格的に学ぶ前(そこらへんの自分の話はこちらへ)。 街をぶらぶらしている時

フロントガラスに残されたメモ

授業を終えて車に戻ると、必ず小さなメモがフロントガラスに挟んであるようになった。 コロラド州の大学院で学生をしつつ、学部生を教えていた時のことだ。 自分の専用スペースはないので毎日空いているところに停めるのだが、大学の駐車場はとてつもなく大きく、昼に車を停めた自分でさえ時々見つけるのが困難だった。空港などでAの15区、などと覚えていないと永遠に車が見つからないのと同じような感じである。 ある日の帰宅時、そんなだだっ広い所に停められた私の車のフロントガラスに小さなメモが挟ま

中国で日本人の私が歌うアメリカ国歌

中国の大学で英語を教えていた時にアメリカの国歌の話になり、その流れで生徒たちに懇願され次の週の授業で私が歌うことになってしまった。 1クラスでの話だと思っていたのに、当日は周りのクラスも集まり、先生や生徒や職員も含め80人ほど教室にぎゅうぎゅうに入っていた。 そもそも国歌を歌って欲しいと言われた理由は、その当時の中国ではまだネットは広く普及しておらずほとんどがインターネットカフェなどでの限られた使用で、外国の情報が制限されていた(であろう)せいで、皆きちんとアメリカの国歌を

やっぱり宮崎じゃった

自分の故郷、hometown、はどこなのかなとあらためて考える機会が今日ありました。ほとんどの方は生まれた町、育った町、帰る町、を故郷と呼ぶのではないでしょうか、でも私はそれぞれ違う町がその場にあてはまります。 わたしの生誕の地は宮崎でしたが、実際そこに住んだのは小学校3年生くらいまでで、そのあとは宮崎県内の違う市で高校卒業まで過ごしたのでいわゆる”成長の場”は県南部の小さな町。そのあとは東京の大学へ進学して、それ以降は海外のあっちこっちです。親戚一同はまだ宮崎におりますが