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忘れられない言葉

 「よくやった、自愛せよ」
 その言葉は答案用紙の左隅に赤いペンで書かれていた。それは高校三年生の最後の国語のテストだった。内容はその先生にしてはめずらしく漢字の読み書きだった。僕は97点をとった。漢字のテストで97点をとったぐらいで先生がわざわざ一筆書いてくれることは普通はないことだが、それには理由があった。

 その前の年の夏休みのある日、僕は予備校の夏季講習に原付バイクで向かっていた。ちょっと急いでいた。渋滞する車の脇を走り抜けようとしたら、ガソリンスタンドに入るために右折しようとしたトラックが渋滞の切れ目から突然現れた。ほぼ正面衝突に近かった。気がついたらバイクと一緒に倒れていて、右足の太腿が「く」の字に曲がっていた。あとで聞いたのだが事故の直後に「ああ、大学がダメになる…」と僕は言っていたらしい。ガソリンスタンドのオヤジはそれを聞いて、大怪我しているのによくそんな言葉を吐く余裕があると感心していたらしい。しかしその時は足が曲がってしまっていることに驚いてはいたが、まだ痛みは感じなかった上に現実感も無かった。むしろ受験がもう終わりだという絶望感に支配されていた。しかし救急車で運ばれている途中から右足に次第に痛みが走り始め、病院に着いた時は激痛に変わり、もう絶望している余裕もなくなっていた。

 救急車は近くの救急対応の病院に僕を運んだ。病院では翌日に手術をすると言う。もしかしたら多少左右で足の長さが変わってしまうかもしれないと言われた。その日の夜、隣のベッドにいた人からしきりにこの病院は良くないから転院した方が良いと言われ、その人も病院と揉めてはいるが転院すると言う。最初は個人的な意見だと思って聞いていたが、あまりにもその言い方が真剣だったせいで、僕の父親も心配になったらしく、学校の側で仕事の行き帰りでも寄れる病院にしたいという理由で病院側をなんとか説得し翌日転院することが決まった。転院した大学系列の大きな病院では全く治療方法が異なっていた。そのおかげで約半年後、左右の足の長さは変わることなく、普通に歩けるまでに完治した。

 手術後3ヶ月間の長い入院生活が始まった。当時学校では当然バイクは禁止だった。僕の事故はすぐに学校中に知れ渡り、担任をはじめ校長先生まで見舞いに来ることになった。入院したのは整形外科の大部屋だったので、スポーツで骨折した人が何人かいた。その中に僕の高校のラグビー部のOBがいた。OBの練習試合中に骨折したらしい。当然のように時々会話するようになった。ある日、そのOBのところに僕たちの学年の国語の担任であったI先生が突然見舞いに来た。なぜならI先生はラグビー部の顧問でもあったからだ。I先生はそのOBとベッドの脇で談笑していたが、僕はとても緊張していた。僕が同室にいることを当然彼から聞くと思ったからだった。しかし緊張していた本当の理由はそのことではなく、僕がその先生のことを一番尊敬していたからだった。当時は私学の男子校だったせいで、殴る蹴るの体罰は当たり前だった。しかしその先生が生徒に体罰を加えたことは少なくとも僕は1回も見たことがなかった。それでも、その先生には近寄りがたい強い男のオーラを感じた。その強さは決して肉体的な強さだけではなかった。その授業内容も高校の国語の授業の質を越えていたと思う。この先生の授業中は居眠りする生徒はほとんどいなかったと思うくらい緊張感があった。誰からも一目を置かれていた。その眼光は鋭く、そしてやさしく、授業をしているその姿は凛としていた。

 I先生はOBの見舞いを終えて病室を出る直前に僕に向かって「元気か、頑張れよ」と笑顔で一言声をかけてくれた。僕は理系だったせいで、I先生とは国語の授業を受けるだけの関係だったので、その時まで僕の名前すら知らなかったと思う。でもたった一言、声をかけてくれたことがとてもうれしかった。

 退院すると松葉杖をつきながらの通学が始まった。担任の先生は数学だったが、理系のくせに数学が苦手だったので、その先生からは見放されていたように思う。彼から「あと1週間休んだら卒業出来ないからな」とみんなの前で言われた。さんざん迷惑をかけたのだから返す言葉もなかったが。 年が明けて高校最後の期末試験の時がきた。案の定数学のテスト結果はクラスで最下位だった。その他の科目も3ヶ月のブランクは大きく、散々な結果だった。しかし国語のテスト内容はI先生から漢字の読み書きと言われていた。いつものテストでは文章を書かせることが多かったがなぜかその時はめずらしく漢字の読み書きだけのシンプルなテストだった。テストの趣旨はこのくらいの漢字は高校を卒業する時に、書けるそして読めるようにしておけということだったような気がする。漢字の読み書きであれば頑張れば出来ると思った。そして、病院で一声かけてくれた恩義を高校最後のテストで返したいと思った。僕は他の科目に中途半端に力を分散させてもたかが知れていると思い、国語のテストだけでもいい点数を取って締めくくりたかった。
 
 後日答案用紙が戻ってきて前述の赤いペンで書かれた短い言葉を読んだ時、僕は涙が出そうになった。当時は先生が覚えていてくれたことだけでもうれしかったが、今思えばたった10文字にも満たない短い言葉にこんなにも心を動かされたことはない。勿論この言葉自体にそれ以上の意味はないが、言葉の簡潔さの裏に流れる文脈にI先生の深いやさしさを感じたのである。

 卒業してからしばらくして僕たちの母校が荒廃しつつある噂を耳にした。その後何年かしてI先生が校長になったことをホームページで知った。きっと良くなると思ったが、予想通りその後何年かすると見事に立ち直っていた。さらにI先生は校長引退後も学園長・同窓会長として在任を続け、同窓会のホームページでは毎年I先生が卒業生を送り出す文章を書いていたが、その内容は教師という枠を越え、ひとりの人間としての思いが綴られていた。その文章はその眼と同様、いつも厳しさとやさしさに満ちており、同時に男の美学すら感じさせた。

 昨年の3月、ふと思い立って久しぶりに同窓会のホームページをのぞいてみた。I先生はすでにその職を引退されていたので新たな文章に出会えるわけではなかったが、そこで目にしたのはI先生の訃報とそれに伴なったお別れ会が数日前に行われたという記事だった。お別れ会に出席できなかったが、ただ生きている間に、I先生が答案に書いてくれた短い言葉のお礼を直接会って伝えたかったと思った。担任でもなく、ちゃんと話したこともなかった現代国語を担当してくれた一教師ではあったが、僕の中では今でも師と呼ぶにふさわしい数少ない恩師であり続けている。

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