見出し画像

N先生と、豆の虫の話

N先生は、母の小学校の担任の先生だ。新卒で赴任したとしても母の十は年上のはずで、かなりご高齢だと思う。

私とN先生との思い出、それは私が小学生の頃にさかのぼる。

と言っても、N先生は私の小学校の先生ではない。

退職されていたか、別の学校で教壇に立っていたのかはよくわからないが、先生は町内のご自宅で、詩と文の教室というものを開いており、夏休みのある期間、私はそこに通っていたのだ。

詩文教室は、習字やピアノの教室とは全く雰囲気が違っていた。

他の習い事には、たくさん子供がいたし、行けば次々課題が与えられ、できるかどうかは別として明確なルールとスケジュールがあり、流れに乗っていればよかった。

詩文教室で、その日そこにいるのは、たいてい私と妹の二人だけ。いつも静まり返っていた。

私は、そんなルールの見えない空間に混乱したし、緊張もした。母の恩師に何かしら認められたほうがよいのであろうと思ったが、N先生の意図はほとんど読めなかった。

しかし、わからないものはどうしようもないので、徐々に「ここはこういう場所だ」と受け入れるようになった。

内容は、一つか二つの谷川俊太郎の詩を除けば、ほとんど記憶にない。私は4年生くらい、妹は1年生くらいだったと思う。

二人で歩いて線路向こうの先生の家を訪ね、居間のソファに並んで腰かけると、N先生の奥さんが「暑かったでしょう」と、ガラスの器に冷たい緑茶を出してくれた。

私はそこで、緑茶は冷たくして飲むこともできるということを知った。(家でも飲みたいと要望したが、叶えられなかった。)

妹と私は先生の向かい側に並んで座り、先生の言葉を聞いたり、与えられた詩を読んだりした。時々読み間違って、笑ったりもした。やはり、きょうだいがその場にいるのは心強いものである。

先生はしかし、ほとんど笑わないのであった。N先生は、いかなるときも先生らしい様子で、私たちがくすくす笑っていても、じっと目を見てゆっくり諭すように「もう一度読んでご覧」と言った。

ある天気の良い日、私たちは詩の朗読を中断して、先生の庭の畑になった豆を収穫した。豆をもぐことは楽しかった。しかし、そのことをよく覚えているのは、単に楽しかったからだけではない。

収穫した豆は、すぐに奥さんがゆでてくれて、先生と私たちはどんどんむいて無言で食べた。

ふと手元を見ると、豆のさやの中に小さな芋虫がいた。さやの中で一緒にゆでられてしまったのだ。私は虫が嫌だったので、ほんの少し先生を糾弾したいような気持ちになり、「先生、虫が入ってる」とそれを見せた。

「そうですか」

先生は眉ひとつ動かさず、言った。

「その虫はこの豆だけを食べて大きくなったのだから、豆と同じだ。食べなさい」

私は衝撃を受けた。先生の口調は、「もう一度読んでみなさい」と同じトーンであった。

妹は私の横でじっと体を固まらせている。妹の豆の中にもいつ芋虫が現れるかわからない。私のこの後の行動が、妹の虫入り豆に対する指針を決めるのだ。姉妹とはそんなものである。私は見えぬプレッシャーを背負って汗ばみ、庭の虫の声が一層高くなった。

沈黙を破ったのは、笑い声だった。「可哀そうに…。いいんだよ、別にわざわざ食べなくたって」

救世主が登場した。奥さんは私の手から、虫の入った豆をさっと奪い、私と妹の緊張がどっとほどけた。先生は、あいかわらずポーカーフェイスで、「フム」などと反応した後、豆を食べ続け、私たちも何もなかったように豆を食べた。虫は食べなくてもいいことになったのである。

これは、別に何の教訓も主張もない話である。でも、先生と豆を食べたこの思い出は、鮮烈に脳内に刻まれている。今となればちょっと可笑しい、不思議な思い出である。

時は流れ、私は成人して働き始め、母は老いて、父が亡くなった。

郷里での父の葬儀に、N先生はやってきた。「先生はどうやって来たのだろう」と母は言った。先生は車が無いのでどこへでも歩いてやってくるらしい。そうなのだろうか。私は、おおよそ30年ぶりに拝見した先生の背中に、何か不変のものを感じた。

N先生は、今も私の故郷にお住まいであるらしい。先生に会いに行かなきゃと母はたびたび言うが、腰が重い。N先生はいつもそこにいて、先生で居続けてくれる、そういう感じがするのかもしれない。

私はそれほど多くN先生と言葉を交わしたわけでは無いし、その後、教師というもの全般とあまり相性の良くない学生生活を送ったのだが、それでも、N先生が先生としてずっと町に居る、そういう感じは何か心強いと思う。町に、「先生」という存在は必要なのである。

N先生はお元気だろうか。





この記事が参加している募集

#夏の思い出

26,225件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?