『否定と肯定』
今の日本社会の現状を顧みるに、間違いなく一見の価値がある映画です。
もっとも、社会的意義と切り離しても、魅力的なキャラクターが織りなす法廷劇映画として充分に楽しめる作品になっています。特に、もう一人の主役とも言える、ビンテージワインを愛する老弁護士(トム・ウィルキンソン)は、ビリー・ワイルダーの『情婦』に登場するウィルフリッド卿を思わせる好人物です。
古色蒼然としたイギリスの裁判の様子も面白い。(現代でも判事と弁護士は、法廷の場では中世と同様のカツラを着用しています。)美しいショットの数々も見所です。荘厳でありながらも、艶めかしさを感じさせる、雨に濡れた石造りのロンドンの街並み。朝の光が指しこむパブのワンシーン等、何気ないシーンの中にも、上質な絵画を目にした時のように、心を捉えられる瞬間が潜んでいます。
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物語は史実に基づいています。
人種差別的パフォーマンスで聴衆の耳目を集める、ホロコースト否定論者のイギリス人作家、アーヴィング。1996年、彼が原告として実際にイギリスで起こした裁判の模様を描いたものが今作です。ホロコーストを研究するアメリカ人学者、デボラ・リップシュタットを相手取り、彼女が著書の中で行ったアーヴィング(及びホロコースト否定論)への批判は、名誉毀損であると訴えたのです。
そこから、イギリスの王立裁判所を舞台に、足かけ数年にわたる戦いが始まるのですが、注意しなければいけないのは、ホロコースト否定論(Holocaust denial)はあっても、それに対して、ホロコースト肯定論なる主張は存在しないということです。
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ホロコースト研究者にとってホロコーストの存在は、大前提となる事実であるため、肯定や否定の議論をすることは無意味なものでしかありません。時には、そうした議論自体が、犠牲者や生存者への侮辱であると捉えられます。
実際に、否定論の多くは(アーヴィングの場合も)、史実の強引な解釈や恣意的な歪曲によって、自身の思想に沿う形に歴史を修正したもの、そして根拠のない人種差別的偏見や攻撃に基づくもので、論とは決して呼べない”デマ”でしかありません。
そこで物語、否定論者に対するホロコースト研究者の法廷での戦いは、否定論と肯定論の争いではなく、否定論が如何に荒唐無稽なものであること、また、それらが意図的に作り上げられた事実を証明する戦いになるのです。
同時に、それは否定論者からの挑発に耐え、感情的な反応を誘発してしいがちな、否定/肯定にまつわる、一切の議論を拒否する態度を貫く戦いでもあります。
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否定論者の用意したステージには決して立ってはならない。ならばこそ、『否定と肯定』という邦題は、残念ながら作品の意義を、根幹から揺るがすタイトルになってしまっています。『Denial』(=「ホロコースト否定論」)という原題に対し、『否定と肯定』という、あたかも「ホロコースト否定論」と「ホロコースト肯定論」が対立していると採れる邦題を付けてしまったこと、それこそが、日本社会の抱える問題を、図らずとも浮き彫りにしているといえるのではないでしょうか。(繰り返しになりますが、「ホロコースト肯定論」は存在しません。)
アーヴィングの人種差別的パフォーマンスや発言の多くは、そしてそれらを一切恥じない厚顔さは、日本に暮らす私たちにも既視感を感じさせるものだと思います。そして、偏見やフェイクニュースに基づくデマが、両論併記の名のもとに、堂々と大手メディアを通じて、世論の中を渡り歩いている現状。実は、それこそが裁判を通じてアーヴィングが望んだ光景なのです。
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