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『砂塵』(★★★★)

オープニングからして良い。水平方向のパンによる長回し撮影で、西部の田舎の街道町”ボトルネック”の往来、酔っ払っては銃をぶっ放し、馬を駆け、喧嘩に騒ぐ無法者たちを、絵巻物のように見せていく。その絵巻物のラストには、一軒の酒場のドア。

大勢でごった返す店内。中央に設えたステージでは美貌の歌手が歌い踊り、荒くれ共が飲み騒ぐ中を娼婦が立ち回っている。一方、店の2階の小部屋では哀れな農夫が全財産の土地と牛を、イカサマ賭博で今まさに失おうとしている。

賭博の元締めは、街道を仕切るヤクザの親分ケント。無法者たちを手下に、町長までもが彼の言いなり。イカサマに抗議する農夫を痛めつけ、騒ぎに駆け付けた保安官は返り討ちに。

この親分と町長によって、新たな保安官に任命されたのは、毎夜、この酒場で酔い潰れてはバンジョー片手に千鳥足、呂律の回らない歌と、若かりし頃の思い出話を繰り返す老いたウォッシュ。彼が保安官に選ばれたのは「酔っぱらいの役立たず」だから。

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無法者たちが闊歩する架空の西部の町ボトルネックの日々は、言うならばカーニバルです。酒と喧嘩、色恋とギャンブルに満ちた祝祭日。この映画には、酒場を中心に盛り上がる、祭りの騒がしい楽しさが溢れています。

そこには、面倒な社会のルールや法の秩序は存在しません。バーカウンターでは次々と空になるグラスに永延と酒が注ぎこまれ、ひとたび喧嘩が始まれば酒瓶が宙を舞う。野次馬たちが囃し立て、打ち鳴らされる銃声は祝砲のように響きます。

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さて、この新保安官のウォッシュ。実は、かつては凄腕の保安官トム・デストリーの補佐官でした。ウォッシュは背後からの凶弾によって倒れたトム・デストリーの息子、トム・デストリー・ジュニアを呼び寄せ、再びこの町に秩序と正義をもたらそうと考えます。

トム・デストリー・ジュニアを演じるのは『スミス都へ行く』や『素晴らしき哉、人生!』等で有名なジェームズ・ステュアート。しかし、このデストリー、父親と同じく凄腕のガンマンでありながら、銃は持たない平和主義者。

悪漢共を銃でねじ伏せることを期待していたウォッシュ(そして、恐らくは多くの西部劇の観客)の期待に反して、彼は暴力ではなく法律、つまりは司法による裁きによって町の秩序を取り戻そうと、一人捜査を始めます。

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ボトルネックの毎日がハレの日ならば、デストリーがもたらそうとするものはケの日。カーニバルを終わらせ、人々を再び、平穏な日常に帰らせるために訪れた人物。

彼が銃をもって悪漢共を成敗しないのは、銃による決闘は、善悪どちらが勝とうとも、それは、あくまでもカーニバルの余興に過ぎないからです。

しかし、そうした人物を主役に据えながらこの映画は、例えば『12人の怒れる男』等のように、如何にしてフロンティアの地に、法と言う名の新しい社会のルールがもたらされたのかを描いた作品ではありません。

あくまでも、この映画を彩るものは、ハレの日の楽しさなのです。酒場の女歌手に扮するマレーネ・ディートリヒのステージも素晴らしい。

だからこそ、法の秩序をもたらすべく訪れたはずのデストリーも、結局最後には、このカーニバルの騒乱の、抗えない魅力に飲み込まれ祭の輪の中へ。そして銃をもってケントを打ち倒してしまうのです。

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『砂塵』は1996年に、「文化的、歴史的、審美的価値がある」としてアメリカ国立フィルム登録簿に登録され、『駅馬車』や『ワイルドバンチ』と共に永久保存されることが決まっています。(ちなみに『砂塵』と『駅馬車』の公開は、同じ1939年です。)この価値とは19世紀後半の西部の酒場の模様と、田舎の民衆の、ハレの日の華やぎの記憶でしょう。


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