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学校に行けなくて悲しいという気持ちも、感染防止のために仕方ないという気持ちも共存していい世界

我が家の小学5年生の長女も小学3年生の次女も、2月28日(金)が突如として3学期最後の登校日となり、昨日から長い春休みが始まっています。

これは云わずと知れた、国からの全国一斉での休校要請に応えて自治体で判断した「COVID-19」(通称:新型コロナウィルス感染症)対策の一環。


SNSなどでは、トイレットペーパーや使い捨てマスクはもとより食料品なども品薄となったドラッグストアやスーパーの画像、"とばっちり"を食ったビール会社の記事などが流れてきます。

その中でも気になったのが、我が家の娘たちと同じように2月28日に突如として学年最後の登校日を迎え、帰宅した子どもたちの様子を伝える親御さんたちの投稿とそれに対するコメント。

「子どもたちが悲しんでいる、かわいそう」
「そりゃ悲しいよね」「我が家もです」
「感染拡大を防ぐには仕方ないじゃないか」
「仕方ないとは何だ、かわいそうじゃないか」


ここでは休校にすることの是非や感染拡大防止への効果については論じませんが、

◆悲しんでいる子どもたちがいること
◆それに共感する親や大人たちがいること
◆感染拡大には必要(だと思う人がいること)

これらは事実のようです。

そんな中で、「仕方ないことだから悲しむな」「悲しいんだから仕方ないとか言うな」というやり取りは意味がありません

なぜなら、現に悲しいし、現に仕方ないと思ってるのだから。


これが「突然の休校が悲しいから親たちが子どもたちのために実力行使によって学校を再開させようとする」といった行動に移されるのなら、感染拡大防止のために仕方ないと思う人たちが行動によってそれを阻止することに違和感はありません。

片方の行動が実行されたら、もう片方の願いが妨げられることになり、双方は明確に対立しています。

でも、

本当なら、休校を悲しいと思う人と休校を仕方ないと思う人は、そう思ったままこの世界で共存していいはず。


休校を悲しいと思う人に、仕方ないと思う人が「悲しいなんて思うべきじゃない」というところまで踏み込んで「仕方ないことだ」と詰め寄るのは、明らかに踏み込みすぎだし、

それに対して「悲しいじゃないか、仕方ないなんてケシカラン」と返すのは、考えを封じ込めようとしすぎているような印象です。


そこで異なる考えを持つ相手を認めず、「やっつけてやろう」という雰囲気になるのって、とても怖いことだと思いませんか?

SNSでその手の投稿やそこに付けられるコメントを読んでいると、

「私の考えの方が正しいんだということを思い知らせてやらねば」

みたいな迫力を感じてしまうのは私だけでしょうか。


そういうときに、

悲しくて仕方ないなんて思えない人は
「悲しいけど、仕方ないことだよね」と思い

仕方ないことだから悲しむなんて許せない人は
「仕方ないことだけど、悲しいよね」と思う

そんな世界でいいと思うのです。

毒にも薬にもなりませんが、そんな世界でいいんだよということをここに書いておきます。

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