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君たちはどう生きるか(考察)        神話で描く少年の人生

戦争、家族、ファンタジーと現実

※2023年7月26日に投稿した文を元にした修正版です。


広告が一切出されなかったミステリアスさも相俟って様々な憶測や考察が飛び交った、宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』

資本主義においては広告の派手さが商業的成功と密接に関わっているとされますが、カウンターともなる手法で大成功を収めました。

”プロフェッショナル 仕事の流儀 ジブリと宮崎駿の2399日”という番組での制作秘話(こちらも賛否両論ありました)や、ジョン・コナリー『失われたものたちの本』などを踏まえることでより自分の中で消化し易くなったので再び考察することにしました。ただ、纏めることに筆者は意義を見出しておらず、この物語をどう読めるのかという可能性の方に興味がありますので、好き勝手書きます。

失われたものたちの本

『失われたものたちの本』とは

初版発行が2006年のジョン・コナリーによる小説で、原題は”The Book of Lost Things”です。
実際に読んでみると非常に興味深い物語でした。物語の構造はどこか胡蝶の夢的で『不思議の国のアリス』に似ています。

できるだけ簡単に要約しますと、

 時代背景は第二次世界大戦下のイギリス。主人公は12歳のデイヴィッド。彼は読書好きで父と母の三人家族でしたが、母を病で亡くします。父はローズという女性と再婚し、ジョージーという主人公の弟が誕生します。デイヴィッドは家庭環境により不安定で、ストレスにより本の声が聞こえるなどの幻聴、幻視、幻臭などに悩まされるようになります。
 次第に戦争の影響が拡大しローズの屋敷に疎開することになりますが、屋敷の庭に物語の国につながる扉がありました。生まれたばかりのジョージーを育てるローズは産後鬱的な症状、疲れによりデイヴィッドに辛くあたり、またデイヴィッドも父を含め家族と打ち解けられない状態が続きました。彼は屋敷の庭で発作を起こし、そのまま物語の世界に入ってしまいます。
 その別世界は深い森の王国で、ねじくれ男という子供たちの”恐怖”や”悪意”を食い物にする存在が支配する場所でした。
 デイヴィッドはそのような王国で、王座を狙う人狼に敵対視されて追われたり、ねじくれ男の嘘に負けそうになりながらも、木こりや同性愛者の騎士に助けられながら成長し、国王が持つ魔法の書『失われたものたちの本』を手に入れようとします。
 しかし、実は国王は幼かった頃に失踪したローズの親戚で、彼はデイヴィッドと同じような境遇により家族を疎み、腹違いの妹をねじくれ男に差し出した結果、不幸に陥った老人でした。また、『失われたものたちの本』は魔法の書ではなく国王が二度と帰れない世界のアルバムのようなもので役にたちません。
 事実を知ったデイヴィッドはねじくれ男を倒し、木こりに協力してもらい元の世界に帰ることが出来ました。
 しかし、物語はめでたしめでたしでは終わりません。
 デイヴィッドは確かに成長し、家族を守る立派な大人になりましたが、父とローズは離婚し、弟のジョージーは戦死します。そして、デイヴィッドも結婚しますが、妻は出産で子供と共に亡くなり孤独に陥ります。彼は働きながら物語(失われたものたちの本)を書き続けますが老いによりそれも困難になり、死を迎えます。そして、また木こり(父)のいる物語の国へ戻っていくのでした。

 
 ところで、この森にはたくさんのグリム童話(初版)にまとめられたおとぎ話がたくさん登場します。ねじくれ男は『ルンペルシュティルツヒェン』が土台とされています。そのほか、『赤ずきん』『白雪姫』『ヘンゼルとグレーテル』『眠れる森の美女』などが登場します。しかし、それらのおとぎ話はねじくれ男が虐殺した子供たちの恐怖などによって歪められています。

例えば、
『赤ずきん』
赤ずきんを被った美女と狼が子をなし、子供はループ(人狼)と呼ばれ増えた。そして、王の座を狙うリロイという人狼をリーダーとした犯罪組織になる。

『白雪姫』
ひどく醜い女である白雪姫(資本家)が小人たち(労働者)をこき使う話。

『ヘンゼルとグレーテル』
姉と弟が家族から捨てられ、お菓子の家に住む魔女に食べられそうになるが姉の策略により脱出。しかし、姉に嫉妬心を燃やした弟は姉の元を去り、迷子になって死んでしまう。

『眠れる森の美女』
塔に眠っているのはデイヴィッドの母親の姿をした魔女でキスをしたものは命を奪われる。

など、より現代的でダークな方向にアレンジされています。

『君たちはどう生きるか』の類似構造としては、
『孤独や死に向かわざるを得ない子供が必然的に大人になる』
過程をおとぎ話をというファンタジーを元に一人の少年の現実を描き出そうとしている、
というものでしょう。


『君たちはどう生きるか』のモチーフを読む

1、アオサギ〜詐欺男、トリックスター〜


 

鳥を読む 文化鳥類学のススメ
細川博昭(2023)

  プロデューサーの鈴木敏夫をモデルにしたとも言われるアオサギですが、参考にさせていただいた上記の本に書かれていることから妄想するとより面白い見方ができるのではないかと思います。

・アオサギは直立する姿から「自立」を象徴する。
・古代エジプトでは神そのものの扱い、近世日本では妖怪のイメージ(p63)
・かつてコウノトリ目に分類されていたがペリカン目に移動
・食料としてのアオサギが宮沢賢治『銀河鉄道の夜』に登場

二つ目のブレットで引用したエジプトと日本でのアオサギの扱いに差異があるのが興味深いです。どちらも太陽信仰があるので価値観に類似点があるのでしょうか。また、以下の引用からは古代エジプトではアオサギが不死鳥の扱いであり、太陽神を孵化させたことがわかります。

天地や神々を創造したとされるアトウム神は「原初の混沌の海」=「ヌン」から、自らの力、自らの意思によりベンヌとして生まれた。アトウム神はのちに太陽神ラーと習合して「ラー・アトウム」とも呼ばれるようになった。
ベンヌが混沌の海から太陽の卵をすくいあげ、それを抱いて孵したことで太陽および太陽神が生まれた。
ベンヌは毎日、夜明けと共に生まれ日暮れに死んでいく。

(p64)

 因みに『失われたものたちの本』にはカササギが登場します。非常に獰猛な鳥という扱いでした。ロッシーニの『泥棒かささぎ』や村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル 泥棒かささぎ編』などのイメージがありますが、それはさておき。

 しかしながら、詐欺男、とプロフェッショナルで宮崎監督が呼んでいたので、言葉遊びの部分も大きいのでしょうか。トリックスターであることは間違いありません。

2、ペリカン〜犠牲者であり加害者 滅びゆく種族〜

ペリカンは中世ヨーロッパでは自身の子供をとても大切にする動物で、餌が取れなかった時は自分の血を子供に分け与える習性があるとされていました。そのため、ペリカン=神の愛、聖餐(パンとワインを肉と血として分け与えた)キリストの象徴とされているとのこと。

 また、婚姻色は薄桃色で、作中のペリカンも薄桃色であったことから、人間の命(ワラワラ)を奪うことでしか命を繋ぎ子孫を繁栄させることが出来ない自己犠牲的存在や、特攻隊の印象に繋がる気がしました。

3、三人の女性 三女神

登場している女性は主に三人
・ヒミ
・ナツコ
・キリコ

ギリシア神話でクロートー、ラケシス、アトロポスの3柱を表します。

日本でも3柱の神がいますね。

三女神(さんめがみ、さんじょしん、Triple goddess、Triple Goddess)三女神 (ネオペイガニズム)、ウイッカの概念の一つで、その他のネオペイガニズムにおける体系的な神格。処女、婦人、老婦人、または3人の姉妹として、3人で一体となした普遍的で世界的な「大女神」としばしば扱われる。
宗像三女神(むなかたさんじょしん) - 日本神話における三柱の女神。宗像大社を総本宮とする。

wiki

また、オイディプス王に登場するスフィンクスの謎かけの「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か」がありますが、父と息子の物語でもある本作はエディプスコンプレックス的な側面があると思い、連想しました。
 

ヒミ〜母親であり処女性の象徴として

戦争で亡くなった眞人の母。彼女は黄泉の国ではペリカンを焼き、ワラワラを守ります。

ヒミは卑弥呼に音が似ており、近い性質を持つのではないかと推察します。火を司どる少女であり、巫女的な存在です。

また、ヒミが亡くなったことによって眞人が絶望したのは太陽を失ったような心情だっただろうと想像し、またヒミの火やアオサギの太陽などの属性から推測すると、アマテラスを連想します。

また、戦争により亡くなったはずでしたが、詐欺男に眞人が連れられた塔で再会します。その時は醜い姿でした。そのエピソードが、黄泉の国でイザナギとイザナミが再開する場面に類似していると思います。


 ナツコ〜受け入れ難い現実の象徴

 継母というのは『シンデレラ』や他のおとぎ話でもそうなのですが、悪く描かれることが多くあります。それは、子供にとって実母との「離別」の象徴であり、受け入れ難い現実を突きつけるものであるからでしょう。そして、また、父親の「男性性」を突きつけるものでもあります。
 ナツコは黄泉の国において式神のようなものに守られており、出産を控えていますが、そのシーンでか弱く怒りなど現実世界では彼女が見せていない「穢れ」として描かれているのは主人公眞人にとってトラウマだからでしょうか。

 

 キリコ〜形而上的な世界(無意識・死・夢)への案内人

キリコは現世では老婆です。黄泉の国でワラワラ(命の素)を飼育しています。また、彼女は漁師で逞しく荒れる波を乗りこなします。「この世界は死者の方が多いんだよ」という彼女のセリフが印象的でした。

このお名前で、筆者は「ジョルジュ・デ・キリコ」を思い出しました。

下の絵は、ギリシア神話を題材にした絵画です。積み木にも見えますし、この神殿のイメージや、広場はどことなく劇中の大叔父様までの道のように見えます。

Ariadne


the grate metaphysician

the grate metaphysician の奥に船の帆ようなものがあるのが見えますね。キリコさんが乗っている船に筆者には見えてしまうのですがこれは思い込みでしょうか。

4、主人公の名前〜牧眞人〜

 牧という苗字はよくわからないのですが、牧師という熟語からも分かる通り、牧という字には「養い導く」意味があります。牧師は神の国がどう出来たのか(創世記)歴史の話から教訓を得、物語を伝える人です。
 また、眞は真であり、部首は目です。真実を見る、曇りなき眼(アシタカのような)を持つ少年であれ、という願いが込められているのでしょうか。

5、建国を急いだ大叔父は形而上学者?

 国王のような風格を持つ大叔父(なぜかアインシュタイン彷彿)ですが、鳥の王国に打倒されてしまいました。なぜセキセイインコが大量に登場し、また彼らが巨大で獰猛だったのかはわかりません。しかし、鸚鵡返しで言葉を操ったり、罵り言葉に「この、鳥頭野郎!」というのがありますので、鳥は能無しを意味するのかもしれません。鳥は飛べますし、美しい歌を歌えるかもしれませんが、どこか耳障りの良い美辞麗句で政治を操る能無しの政治家にダブります。
 そして、大叔父もせっかく積み上げた十三個の積み木の秩序を彼らによって壊されます。
 筆者はこれが現実世界が戦争で危ういためだと思います。実はファンタジーは現実を反映させる鏡なのではないか、と。
 また、キリスト教では神は6日間でこの世を作り、1日を安息日としましたが少し急ぎ過ぎではないでしょうか。それで大叔父が少しでも時間をかけるために三日に一回積み木を積み上げろ、と言ったのかもしれません。
 ただ、キリスト教(聖書)限定ではなく、宇宙物理学的な話(アインシュタインは理論物理学、筆者は違いがわかりません)、いや、宇宙の擬人化だったりするのかしら。

6、美味しそうなジャム

九州大学出版会
ファンタジーの世界(2002)

 ジブリ映画のご飯はすごく美味しそうです。『君たちはどう生きるか』のジャムパンも薄気味悪いほど美味しそうでした。
 
 最近読んだこの本にジャム関連の言葉があったのでご紹介します。
出典元:『都市の見る夢』(濱田麻矢)
マグリットの絵に天空の城ラピュタみたいなモチーフがありますよね。


ルネ・マグリット ピレネーの城(1959)

この作品を題材にして書かれた小説があるそうです。
西西『浮城誌異』(1996年)
この、西西という作家さんがイタリアのカルヴィーノという作家と対談したときにこのようなお話があったようです。少し長いですが引用します。

『ファンタジーの読み手には、「会議の中断(suspension of disbelief)」が要求される。小説がリアル(真実)でないことがわかっていても、読むという行為の途中では、暫時真実への要求を取り下げて遊戯の規則を受け入れ同時に遊戯に参加して楽しむことが必要だ。』
『上質なファンタジーとはいいジャムの美味しさがわかる、そのようなパンであって初めて懐疑を中断させることができるのだ。』

『ファンタジーの世界』都市の見る夢(濱田麻矢)(p60)

 鉤括弧一つ目のお話は「ピンクの象」について説明しているマリア・コニコヴァの「シャーロックホームズの思考術」にあった例をとるとわかりやすいと思います。単純なことで、人間はピンクの像がいない、とわかっていても、ピンクの像を一旦想像してからでないとその事象を否定できないという脳の性質がある、というものです。

 つまり、ファンタジーが面白くあるためには、現実世界がより強固でなくてはならないのです。パンが美味しい方がジャムも美味しく感じられる。パンとサーカスなど、現実のつらさを紛らわすための手段としてのゲーム、格闘技というのももちろんあります。それはより本能的な興奮や刺激ですが、物語は想像力の世界です。
 今、戦争や社会問題がたくさんあって、ネットの発達でより表面化しやすくなっています。ファンタジーが面白いと思えなくなったら、崩壊寸前の警告ですね。


『わたしたちはどう生きるか』

 ラストシーンでは、主人公は現実の世界でもファンタジーの種(石)を持ち続け、受け入れ難い現実(ナツコや新しい家庭、母の死)を黄泉の国を巡ったことで受け入れられるようになります。それはアオサギに導かれての自立だったのでしょうか。
 そして、最後は家族揃って(新しい命も迎えられ)ドアから新たな地へ向かいます。
 その先が「君たちはどう生きるか」なんでしょうかね。あるいは、これからの世界や日本はどのようなファンタジー(神話)を紡ぐことができるのか、人々が生きていて楽しい世界になるのか。
 
 筆者はジブリ作品には戦争を生き抜いてこられたからこそ描いた戦争、憎しみ、孤独などのテーマが通底しており、現実を直視することでの悲観主義的であるという印象を全作品に対して持っています。ハッピーエンドに見えるようなものもそれは映画作品の締めくくりでしかなく、その先もその物語は動き続ける。その限り、谷あり山あり。どこで切り取って終わらせるかの違いでしか無いという見方もあるかと。また、その逆もあり、一見バッドエンドに見えるものもハッピーエンドにできる可能性があること。
 この記事ではこの物語は古今東西の「神話」というファンタジーをもとに一人の少年の現実を描き出そうとしたお話しだと解釈しました。創世記も、国産みも、科学も、アニメーションも。全て人間の想像力で描き出して作り出した「世界」です。

それがもっと独りよがりではない「美しさ」を持てるように。
そんなメッセージだとしたら、この作品は宮﨑駿監督からこれから生き続ける私たちへの宿題と言えるのではないでしょうか。


2023/12/31

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