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世界平和は1人で出来なくてもHeyと声かけることなら【しまさんの読むラジオ】

こんにちは。お久しぶりです。つい書きたくなったのでまた筆(キーボード)を執りました。

「平和」

突然ですが。

最近、「平和」だと思いますか?

僕は、そうは思ってません。

ある意味の戦争状態にあると思ってます。

以前、自分が出演したミュージカル「A COMMONBEAT」のテーマは「異文化理解」と「平和」になっています(らしい)。

▼一応、公式サイトもどうぞ

実際、異文化交流をし始めたら、文化同士が衝突して、戦争が起きて…というストーリーになっています(若干ネタバレです)。

その時に書いたnoteでも「生きづらい世の中に対する怒り」について書きました。

「男らしくいろ」という世の中と、そこに適応できない自分が嫌いすぎたので(男性だけど女性の履くスカートを)履いた

記事より

ここでは、世の中の圧力が嫌すぎて、という文脈でした。

戦争は、相手がけしかけてきたからには、自分たちの仲間を守るために戦わねばならない。だから戦う。

それは、兵器を取りだして殺し合う物理的なものだけでは無いと思います。

会社で競合に負けないような商品を作って売り込み、報酬を得てくる。その戦いに負けると人生としても、場合によっては社会的に負けの烙印が押される。(そこまでダイレクトでない方もいらっしゃると思うけども、あえて単純にね)

だから、戦って相手を倒す。

世界から資源が減ってるのもあって、より資源の取り合いが激しくなってるでしょうし…。

暴力でなければ、人をやっつけていいのか、とたまに迷います。つくづく会社員に向いてないなーと。

でもどんな仕事をしていても、「経済戦争」とは無縁になれないなー。

うんどーしよー自給自足かなー。早く遁世したいなー。

とまあそんな話がしたい訳じゃないです笑

こんな世の中であっても、平和に生きるには、平和にするにはどうすればいいんだろう?という話がちょっとしてみたかったのです。

消せない灯りともし続けていく

先日、横浜に行く用事があって、どこかに行く時はそこにゆかりのあるミュージシャンの曲を聴きながら移動している。

川崎ならSumikaかSHISHAMO、相模原ならいきものがかり(厳密には厚木か海老名だが)、愛知ならスキマスイッチ、関西ならコブクロといったあたりかしら。

では横浜だとどうなるか。

そう「ゆず」です。

そのゆずを聴いている中で、久しぶりに聴いて、このnoteを書きたくなる衝動を起こされたのです。

ゆずの「Hey和(へいわ)」。

神は僕らの心の中にある
一つ一つの命の中に
耳を澄ませば聴こえてくるだろう
気づかずにいた生命の声を

ゆず「Hey和」より

最初のワンフレーズから、問いかけてくるようなそんな歌い出しです。何より、この歌自体が「君」に問いかけるような歌詞になっているからでしょうか。

サビまで聴くと、どうして「君」に問いかけているのかが明かされます。

Hey和 この地球(ほし)に生まれ
Hey和 僕らは出逢えた
君のために何ができるのだろう
Hey和 絶えない微笑み
Hey和 喜びのうたを
消せない 明かり 灯し続けてゆく
君がいるから

そう、「君」という存在があるから、人の命としての「君」と出逢えたから、僕は何ができるだろうか?そう思った時に「消せない明かり(=笑顔、喜び)」を灯し続けてゆくことだ、とふと気づくのです。

「君」に出逢えてなかったら、声をかけることも、誰かを思うことも、できなかった。でもできるようになった。だから守り続けたい、平和を。

雲の切れ間から差し込む光

しかし、そう願っても、争いは絶えない世の中。

神は僕らを試し問うのさ
罪を 過ちを 歴史は繰り返す
(中略)
人は何故にこんなにも苦しみを抱き
全てを奪う争いは今もやまない

それでも希望は捨てない。

どこまで歩けば辿り着けるだろう
終わり 始まりを探し求めて
そっと目を閉じ 問いかけてみるんだ
雲の切れ間から差し込む光

苦しい世の中でも、争いが絶えない中でも、いつか見えてくる「希望の光」を見捨てない。

そんな、強い意志を感じるフレーズに、光から見えてくる景色が描かれます。

Hey和 咲く花のように
Hey和 大地は色づく
捨てない 希望 守り続けてゆく

希望があれば、咲く花のように大地は(人の希望で)色づく。だから守り続けてゆこう、と。

気がつけば、希望さえも捨てたくなるようなこともあります(僕もたびたびあります)。

でも希望を捨ててはいけない。大切にしたい人がいる。大切にしてくれた人がいる。

だから今日も平和を、誰かを思うことで、祈って願うのかもしれないです。

大切な人、でなくても

山梨の夕焼け。

改めて、ゆずの「Hey和」の歌詞を、噛み締めながら読むと、平和に対する祈りと共に、「目の前にいる、大切な人、隣人がいるから、その人のことをまず思ってごらん」と言っているように思いました。

たぶん、その人のことを笑顔にしよう、と思って、その数がまたひとり、またひとりと増えていったらいいのかな。

でも意識して「この人を大切にしよう」と思うと、誰かとしっかり腰を据えて関わらなければならない、という側面もあります。難しい。

ならば、関わってもらえた人に、「ありがとう」を伝えるだけでもいいのかもしれないな、とも思いました。

だって、対話できるような相手と、いきなり喧嘩を売ったり、殴りつけたりって、できないと思いませんか?

タイトルにも書いたけど、声を掛け合える相手なら、そこに小さな平和はできると思うのです。

少しのことでも、「大切にしてもらえた」って気持ちになることが第一歩。だと思うんだけどなー。

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