それは怪物〜『〆切本』(左右社編集部 編/左右社)

就職か進学か、進路が決まらずとりあえずの保険で論文を複数掛け持ちして書いていたある年の春、ふと鏡を見たら箪笥の裏側から出て来た10円玉みたいな顔色の自分と目が合った。
その数日前、原稿用紙の前で頬杖をついたら(論文の内のひとつは手書き提出指定だったのである、今じゃありえないけど)手の平に毛が当たる感触があった。宝毛が生えてきたんだと思った。良い論文が書けている吉報だと信じて、その毛を抜かずにおいた。
よく見たらちぢれた太ましい髭だった。睡眠時間が不安定だったのでホルモンが男性寄りになったのだと思う。

男だか女だか、
若いんだか老いているんだか、
乾いてるんだか脂っぽいんだか、

よくわからない生き物になりながら〆切に向かって文章をまとめている。
これからどうなるんだ、私も論文も。
女に戻れる気がしないし、論文が仕上がったとて、明るい明日が確実に見えているわけでもない。
もしかしたら私、羽化できないさなぎみたいにずっとこのままの生活なんじゃないかしら。

安アパートの薄い壁の向こうから、男女の声が聞こえてきた。
楽しんでるなー。
おとことおんながいるなー。
ちゃんとおとことおんなしてるなー。
この人たち私の論文なんて一字も興味ないだろうなー。

…という。そんな〆切体験を思い出す、おすすめの一冊。時代も性別も超えて、〆切という怪物と戦った(時に逃げ惑った者あり)勇者たちの記録です。

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