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20230915-17 回復(一旦の)

セーフティネットとしての私的備忘、無推敲。

-0915

職場の研修で数日間外泊。
研修とはいうけど、ほとんど日本中の同期が一堂になって懇親しつづけるような性質のものだった。初日に、できるだけ建設的な議論をするための手法だけを簡単にレクチャーされて、その後はごくありふれたテーマ(どんな上司になりたいかとか)に沿って、あるいは各職場でどのような専門仕事を所掌しているかをプレゼンしその課題について話しつづけたりする形式だったのだけど、これが結構よかったな。
職場ではなかなかしない理想論や純粋な(あるいは、無責任な)知的好奇心ベースの仕事質問などが4日間・食事時や飲みの場も含めてひっきりなしに続いていた。
わたし含めみんな実はこういう会話がすきだったんだよなって思い出した。

日頃職場でおこなわれてる会話って、究極、「私の職位はこういう権限を持っています」→「なのであなたの職位におかれてはこの作業を行いなさい/あなたの職位の権限をもってこの作業を私に指示してください」に尽きていて(これは私やその周りがこれ以外の会話が不得意だからなのでしょうけど)。
自分の職位にそぐわない理想論や、指示の形式をとらない興味ベースの質疑応答は、やっぱりなかなか難しい。

4日間ほんとうによく喋った。

解散して帰り道。大学時代の一時期、ある家に通っていた時期に使っていた路線に数年ぶりにのったせいもあるかもしれないけれど、
なんか大学時代のような、夢のような時間だったなと思いかえした。

他方、夢のような、というのは、まさに職場での実際の現実仕事に紐づいていない時間であることも意味しているわけだな、とか、4日間でたまったメールをちぎって投げながら思った。

0916

朝起き。掃除をやり。
声優イベントがある日で、そのあともフォロワーとの飲み会があるのを楽しみにしてたから早めに出る。
眼科でコンタクトレンズを調整して、移動中、咳が出始めた。

それまで数日痛飲しつづけたことも頭によぎって、青くなって抗体検査キットを買った。今思えばただ掃除のハウスダストのせいだったのかもしれないのだけど。


検査結果は、薄い線がみえるようなみえないような、でもその時点で結構もう怯えてて、それ以降のイベント全部キャンセルしてしまった。

イベントで人に会いたい気持ちと、そのひとたちにだけは移したくないきもちが天秤になり、こういうとき後者をえらぶことに決めていたんだよな、と、ロックダウンのときのじぶんの行動原理を思い返した結果の判断であって、ここで前者をえらんだら後悔するだろうと思った。

せめてもと道中いい珈琲豆をテイクアウトした。おうち時間を満喫しよう、と帰宅。
そういえば研修で話したあの会話たちを記録しておくかとメモ帳を開き、私達がどのような職業人になりたいかの理想論を記憶からたどって書くにつれ、
あの会話の内容と自分の仕事の内容のかけ離れがどんどん自覚されてきてしまった。

研修の場では、みんないい仕事してるよね、だからなんとかこの職場を変えたいよねって話をさまざましていたわけだけど、さて自分が就職してから体験してきたことといえば、
仕事をより善く変えたいプランはいろいろ浮かんで、幸いそれを変えるチャンスのある働き方改革みたいな部署へも異動させてもらったのに、自分の能力不足でそのどのプランも実現できないまま、ますます職場がわるくなっていく、みたいな状況であって、この自分の能力不足がなんもかんも悪いじゃないか、自分より有能な同期があの改革部署にいるべきだったんじゃないか、という観念がぐんぐん増強してきた。

これからの自分の人生は基本的に週5日の仕事に占められて、だからこそそのなかで精いっぱい誠実にやって世界を良くしていくべきなのに、この能力不足がある限り、でこの能力不足が、もうこの何年も治そうとして治らなかった自分のコミュニケーションの苦手さとか不安気質に根差してる限り、この職場に自分がいることって世界にとって不利益じゃないかみたいな考えが抜けなくなって、一刻もはやく仕事をというか全部やめないといけないとぐらぐらになってしまった。

思えば職場の上司にかぎらず、大学の同期、クラブの人々とか、舞鶴よかとさんのファンの人々、すなわち身の回りの全員が、自分の仕事を責任もってこなしているのにこの自分の軟弱はなんだろう、と、ぐるぐるして、

・今の仕事は組織的に実施されてるよ
・今の仕事は世にとって重要な仕事だよ
・僕の目的は世をよりよくすることだよ
・僕はこの仕事に向いていないよ
→今全部終わればよりよい後任が補充されてよりよい世になるよ

の論法があたまから離れなくなった。

精神がぐらぐらしているのは自覚できた。
また、あやまった心であやまった結論に至ってる予感があったから、家に積んでた精神系の本を片端からめくったけど全然文字がうわすべりしてやばかった。
うめいて室内やベランダを歩き回って、いま酒を飲んだら本当にあぶないと思ってそのまま眠った。

0917

目がさえて起床。今日も不快な暑さの予報で、洗濯を回してさっさと干した。
いくぶん気分が落ち着いたからあらためて昨日読み捨てた本を手に取った。
特に、名古屋で買ったんだったか、古い論理療法の教科書は、まあ自分のこころを自分の理性で統御するみたいなアプローチでそれ自体不快だったんだけど、この本だけでも倒そうと思った。

またYoutubeの検索履歴に残ってた精神科医の動画とか、その他、さまざまな検索履歴のサイトも倒そうと思った。

つまり自分の昨日の結論(ぜんぶやめる)が不合理でないことを証そうと考えてたっぽい。

残暑はますます暑くて苛々する。

この論理療法の本。
患者に生起した感情を、その原因はあなたが組み立てた誤った論理にあるのです、あなたが生きるためには誤答をやめる必要があります、さあ治療しましょう、と指弾しつづけるような、まあ本当にエリート的アプローチで、徹底して論破しつづける書き方でどこまでも相いれないものだった。

かつ、今やわたしたちは、感情は心の中の論理に従って生まれるんではなくて、むしろ論理や思考が感情の後付け補強としてあらわれるものである場合が多いことを知っているから、いかにも古い時代の考えかたにしか思えなかった。
この治療アプローチって薬というよりはむしろ毒ではないか、と読み進めて夕方。
いよいよこのいけすかない論破の本の末尾、さて読み捨てようと思ったときに、

’人間的な価値’つまり’善’とはただ生きていること、今ここに存在していることにのみ基づくべきであること(…)誰であっても、’私は生命ある存在であるがゆえに善なる存在なのである’と考えることが最も正当な出発点だからである。

なる文章があった。

これは、けっこう偉いなと思った。

上の命題は証明も反証もできない。
筆者もその後につづけるように、「私は生命ある存在であるがゆえに善なる存在なのである」と言いうるのと同じ程度に、「私は生命ある存在であるがゆえに悪なる存在なのである」とも言いうるんで、ぜんぜん脆い。
でも、最後の最後になって、まず筆者はこの命題だけは真だと仮定して基礎にしたてて、善なる存在を生かすためだけにこの療法を組み上げたんだ、と明かす。
この正直さはああ偉いなと思った。

どちらの命題も証明できないのなら、ましな方に基づいて公理系を組み立てる、そのアプローチは、途中のやりかたはたしかにいけすかないのだけど、うん、尊いなと思った。

自分は生きていることそれ自体を善とは思えなくて、
誠実にやることが善である(そのために生きるかそのために死ぬかを問わず。)、という考えを、大学以来の指針にしてきていたのだけど、
どちらの言い回しもけっきょく公理にすぎないなら、まあ仕事で詰みかけのこのタイミングで、少し公理を乗り換えてやってもいいかもな、と思えた。
つまり、生きることが善である。できるかぎり誠実であればなお良い。
という風に。

わからないけどね。
結局古い本に書いてることだし。また自分のこころがこれを実践していく強度をもつとはぜんぜん思えないし。
以前だって、なにはおいてもまず生きてくことだけが大事なんだ、と思えた瞬間(ガルラジ最終日、富士川SAから帰ってきたとき。いつか書きたい。)があったけど、結局仕事のもみくちゃにやられ、昨日みたいな自棄までなっちゃったし。

でも、もし次だめになったら、これより後の時代のもっと思慮深い本を読むことができるだろうから、さらに、こころを耐えさせる治療薬とかにも今はまだ手は出していないから、つまり、いくつかセーフティーネットを残した状態で、当面新しい公理系への乗り換えを試せているから、まだ大丈夫だな、と思えてる。

という、一旦の、記録です。

どういうことが起きてどういう風に(なんとか)乗りこなしたか、の記録として、自分(と他の仲間)のために残します。

金沢蓮ノ空スタンプラリーの道中で買った線香を炊いた。

湿ったお茶殻を積んで香炉代わりにしてる

スパイシーでいい香り。
仏壇を思い出して、明日は敬老の日なことにも思いがおよんだ。
実家に向けてなにかできればいいな。何もできなくてもまあいいな。

おびえてた咳は全く治った。あるいは偽陽性だったのかもしれないね。


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