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自分の人生を生きない人生

「自分の人生を生きろ!」といわれます。

しかし、どれだけの人が、自分の人生を生きられるのでしょう?
そもそも、「自分の人生を生きる」とは?

亡くなった父は、「自分の人生を生きていない人」でした(私の目には)。

仕事が嫌だと言いながら家族のため働き、絵を描きたい、海外へ行きたいと語りつつ、仕事をやめて2ヶ月後に亡くなりました。

急遽、人工呼吸器を入れることになり、会話できなくなった父が最期に何を感じ、考えていたのかはわかりません。

しかし、「自分の人生を生きられなかった」と後悔しながら旅立ったのではないか、と私には思えたのです。

後悔したくない!
自分の人生を生きたい!
他者の人生を生きるなんて嫌だ!

そう考えていましたが、北方謙三さん著「岳飛伝」文庫版15巻の一節を読み、衝撃を受けました。

(以下、「地陰の夢」より引用)
「この国は、人を得た。おまえが来た時、先の帝はそう思われた。俺には、それがよくわかるぞ、韓成」
「埒もないことを。俺の人生を、なんだと思っているのだ」
「なあ、韓成。自分の人生などない人間が、多くはないが、いる。おまえがそうだし、俺もそうだったと言えるだろう。人生がないと思いながら生きるのも、人生なのだ」
「勝手なことを」
「自分が死ぬのだろうと思った時、それこそが人生なのだと、私には見えてきたのだよ」

(引用ここまで)

解説すると、韓成は、将として数千人の兵を死なせた過去を引きずりながら、周りに求められる役割を自分なりに懸命に果たしてきた人物。

韓成にすれば、自分が主体的に何事かを成し遂げた思いはなく、ただ周囲に求められるがまま、流されに流されて、生きてきた。

つまり、自分の人生がない。

そんな韓成の人生は、不幸なものでしょうか?
私は、そうは思いません。

たとえ本意ではなくても、他者や社会に求められ、必要とされる人生には意味があり、価値がある。そのことに本人が気づけた瞬間、幸せな人生となりうるのではないでしょうか?

スティーブン.R.コヴィー博士の大ベストセラー「7つの習慣」において、第1の習慣は「主体的である」ことが挙げられています。

すなわち、幸せになるための第一歩は、主体的であること。

もちろん、主体的であることは重要であり、他者にいいように、ボロ雑巾のように扱われる人生が幸せとは思いません。

一方、極論ではありますが、自分のやりたいことばかりをエゴイスティックに追求した人生は、本人は満足で幸せかもしれませんが、周囲から理解や共感を得ることは難しいでしょう。

「自分のための人生を生きること」「他者のための人生を生きること」。

これらは相反するものではなく、両立しうるはずです。

仮に、「自分の願うような人生を生きられなかった」と感じる場合でも、多くの時間を他者のために尽くして生きた人生は、価値のある幸せな人生ではないでしょうか?

父の最期は苦しむことなく、眠るがごとく安らかで、誇り高い死に顔でした。

「幸せな人生だった!」と満足して旅立ったのだろうと、今では信じています。

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