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1章|ひとびとが考え工夫してつくった大きな道具|【2】建築家・浜口ミホのつまづき

戦前までの封建遺制を脱して、あたらしいこれからの住宅の理想を掲げた名著として今も語りつがれるのは、西山夘三『これからのすまい』(1947年)と、浜口隆一『ヒューマニズムの建築』(1947年)、そして、浜口ミホの『日本住宅の封建性』(1949年)です[図3・注3]。浜口ミホは「女性建築家第一号」として知られています。

図3 濱口ミホ『日本住宅の封建性』

浜口の『日本住宅の封建性』には、「封建的な住宅」から「近代的な住宅」へ、「格式主義」を改め「機能主義」に、といった二項対立の構図が強く打ち出されています。

「封建的な住宅」「格式主義」の象徴とみなされた「床の間」や「玄関」の排除といった主張からは、敗戦後まもない時代の空気が感じられます。いまからみると行き過ぎた伝統批判だと指摘もできるでしょう。戦争から解放された当時の日本では、新しい社会と生活をつくることが強く求められました。浜口もまた、その目標へ向けて、家事労働を軽減し、快適な生活空間を獲得すべく、「機能的」であることに賭けたのだと思うと合点がいきます。

『日本住宅の封建性』で華々しいデビューを飾った浜口は、以後、雄鶏社「すみよい住まい」シリーズなど[注4]、模範的な住宅や使いやすい台所などについて広くひとびとに啓蒙する活動を行っていきました[図4・5]。

図4 浜口ミホ編『住みよいすまいと暮しの全集』
図5 浜口ミホほか「使いやすい台所」

ところで、『日本住宅の封建性』には「農村住宅の封建性」と題した疎開先での体験も収録されています。浜口が幼少期を過ごした中国・大連はもとより、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)家事科進学にあわせて日本へ戻ってきた東京での生活とも異なる土地・北海道。そこでの生活は強い違和感と疎外感を浜口に突きつけたといいます。それはこんなエピソードです。

敗戦直前に疎開した浜口は、村のはずれに土地を借りる若い農家Yさんと仲良くなりました。Yさんの貧しく小さい家を見て、浜口は住宅改善へ向けてあれこれアドバイスすることに。ただ、Yさんにとっての理想の住まいは、浜口には到底受け入れられないものでした。浜口はこう表現しています。

機能的住生活水準=一人の人間当りの住生活的価値の大きさ。格式的生活水準=一つの「家」当りの住生活的価値の大きさということができるであろう。一方は分母が「人間」であり、他方は分母が「家」である。(中略)農村社会の通念にしたがえば家族の人間的な生活の幸福の向上をはかることよりも前に―というよりもむしろそれを犠牲にしても、-「家」の格式的向上をはからねばならないのである。

浜口ミホ『日本住宅の封建性』1949年

Yさんの理想は「家」を「人間」より重視するものだったのです。農地解放が成り、新しい家族制度になったのだから、「人間」としての生活を豊かに高め、農家としての生産性を高める機能的な住宅にしよう。浜口はそう熱心に説得を試みました。

ひと通り話を聞いたYさんは申し訳なさそうにこう言ったといいます。「…理論としてはそれはよくわかる。しかし自分のまわりの人々、父母、親類、部落の人々のことを考えるとそう急に皆とちがう住宅をつくるわけにもゆかない」と。あたらしい日本に生まれ変わった今、家を持つことも、そのつくり様だって自由にできるようになったはず。そう信じて熱心に説得してきた浜口を脱力させるYさんの本音。

それは、家が複雑なしがらみのなかでつくられる事実に直面した瞬間であり、住宅改善の道のりが長く険しいことを痛感させる出来事でした。


3 竹内孝治「『日本住宅の封建性』を読む:浜口ミホと戦後住宅」、建築ジャーナル、2023年2月号
4 浜口ミホは雄鶏社「すみよい住まい」シリーズ3作を担当した。『住みよいすまいと暮しの全集』(1951年)、『すみよい住まい・第2集』(1951年)、『同・第3集』(1953年)。

図版出典
3 浜口ミホ「農村住宅の封建性:住生活水準の研究」、『日本住宅の封建性』、相模書房、1949年
4 浜口ミホ編『住みよいすまいと暮しの全集』、雄鶏社、1951年
5 池辺陽、浜口ミホ、東京友の会食事研究部『NHKラジオテキスト・女性教室「使いやすい台所」』、日本放送出版協会、1958年3月

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