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なにものでもない。

不幸じゃないと、努力ってできないんですかね。

日曜の昼下がり、ドラマ「だが、情熱はある」を見ていて、唐突に引っかかった春日の言葉。まだ芸人として駆け出しの頃、惨めさとか、恥ずかしさに折れそうになっていた若林にこう言ったシーンがあった。

自分が不幸だと思っている時、惨めさとか、恥ずかしさと、辛さから大きなパワーが生まれてくることがある。私もそんな学生時代を過ごしていた。いつも誰かより劣っていて、優れていることがよしとされる世界に嫌気がさしながらも、世間的な評価を得るための努力をしていた。そこまでしてようやく、一人の人間としてギリギリ認められているような気がした。でも「今、幸せ?」って聞かれたら、「いや、」と言いながら首を傾げることしかできなかったと思う。側からは幸せそうに見えたとしても。

前向きな努力って、世の中には存在すると思う。
でも、どこかで苦しさが伴わないと、なんだか「努力している感じがしない」という気持ちもある。だから私は、不幸な時の方が「努力」を感じられた。

日々が楽しくて、辛さや苦しさを伴わないのに物事がスムーズに転がっていくことを、「努力した」と感じられない。むしろ「なにもしてない」感が強くなった。そんな自分が幸せだけど、どこか物足りなくて、なにものでもない存在に感じてしまう。今の生活に特に不満がなくて、そこそこの幸せに満たされていたら、頑張る理由が特にない。理由はないのに本当にそれでいいのかな?って常に考えてしまう。贅沢なんだろうか。

日々に不満があって、どうにかしたいと強く願うから、「努力」する力と理由が生まれる。究極の面倒臭がりは、やっぱりちょっと不幸じゃないと努力はできないかもしれない、なんてことを考えてしまう。

そこそこの幸せを得ていても、その先を求めるための「努力」って、どこから始めたらいいんだろう?
いつもその答えがわからなくて、ふわふわ彷徨っている。

好きな服が着られて。
ご飯は美味しくて。
家は駅から近くて快適。

今日もエアコンは涼しい。
洗濯物が揺れる姿も、平和でいい。
でも、何か足りないこの気持ちはなんだろう。

「だが、情熱はある」今夜最終回。
そこに、答えはあるんだろうか。


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