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苦しくないと頑張っていない気がした

「苦しみを超えた先にこそ、得るものがある」

この考えに縛られるようになったのは、いつからだろう?

確かに苦しい努力の先に、得るものもある。
たくさんの努力で獲得したものは何ものにも変え難い。
あの爽快感は、格別だ。

でも、それが全てではない。
全てがそうあらねばならない訳ではない。
そう思うようになったのは、わりと最近のこと。

多少限度を超えても頑張れるのは、本当にその先に明るい未来があると希望が持てる時と、成し遂げたいと思う自分の意志がとても大きい時だと、私は思う。

学生時代は、努力の先の「光」がある程度用意されていた気がする。それなりに正しい方法で頑張れば、頑張ったなりの成果・満足感が得られた。その補助をしてくれる環境があって、学校とはそうした成功体験を学ぶ場でもあったと思う。

環境や感じ方は人それぞれだけど、少なくとも私は学校に行かなければできなかった経験をたくさんさせてもらった。あの気持ち良さは格別だったし、鈍臭くて色んなことに苦手意識の強い私には、そうした環境がありがたかった。

でも成功体験とは媚薬のようなもので、その経験があるからこそ、もっと頑張れば良い結果が、幸せな未来があるはずと考えるようになった。

今、それが手に入らないのは自分の頑張りが足りないからだ。もっと努力せねば、と自分を責め立てる。

努力し続けることが苦しい。
何のために頑張っているのかわからない。
でも頑張る以外の方法がわからない。

そんなループは何度かあったけれど、ひどくハマったのは仕事をし始めてからだった。

***

先日ことばの森図書館の司書をやっているご縁で、「転職」をテーマとした音声配信に参加させてもらった。その時出てきた「戦略的撤退」というワードは、20代後半の私のテーマだったと後から感じた。

転職するまでの期間、今いる状況から離れることが逃げになるのではないか、逃げたら負けなんじゃないかという重々しい、誰に対してなのかわからない罪悪感が自分の中で渦巻いていた。

けれど私は撤退した、戦略的に。
今自分がしているのは「努力」ではなく、「無理」だと気づいたから。

いつの間にか「苦しい状況=努力している」と勘違いしていた。
自分が望む目的のための努力は「光のある苦しさ」であって、目的のない努力は「果てのない苦しさ」である。

それに気づかず沼にハマった自分に、膝まで浸かったあたりで気がついた。「無理」という名の沼は頑張れば前に進めるものではなかった。まだ今なら抜け出せる、そう気づいた時が戦略的撤退のチャンスだった。


***


努力は美しい。賞賛されるべきもの。
苦しみの先に、光がある。

幼い頃から自然と刷り込まれてきた概念は、最上の喜びも与えてくれたが、自分自身を苦しめる呪いにもなった。そして苦しみということばの意味を、私は一つと考えてしまった。でも本当はその苦しさは、どんな苦しさなのか考えなくてはならない。

数年前まで、戦略的撤退と言いながらも、私は何となく逃げ出した感に苛まれていた。転職した先はとても環境が良かったけれど、まるであたたかい湯に浸かっているような気分で、苦しくないことに焦りを覚えた。

(私は努力していないんじゃないだろうか?)


いや、違う。
あの時の苦しさは、自分の背から下ろしていいものだった。
私は健康的に生きたい。心も体も。
その目的のためにこの苦しさは必要じゃない。
「無理」に要していたエネルギーをもっと他のことに使いたい。

仕事を辞めた後、資格をとった。勉強はかなりハードだったけど楽しかった。今の職場でも大変なことはある。でも自分の頑張ったことがチームやお客さんのためになるのが形として見えるのが嬉しい。苦しくはないけど、努力はしている。

苦しくないから頑張っていないのではない。
重さを感じずに心と体が動けているだけ。
なにも考えず、動かずに過ごしているわけではない。
まっすぐに進む誰かを見て、自分に苦しみを強要することはない。

そう切り分けて考えるようにした。
苦しくないと頑張っていない気がしてしまう自分は時々現れるけれど、いや待てよと考える。

逃げるのではない。生きるという経験の中で、ようやく見えるようになった沼にハマらないようにしているだけ。

あらよっと、軽く避けられるように。
一度立ち止まって足元を確かめられるように。

苦しくない道を選ぶのは、悪いことじゃない。

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