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君がそばにいてくれるということ。

「ねえ、覚えてる?」
 はじめて彼女がそう言ったのは、区役所に婚姻届けを出しにいった帰りの車の中だった。
 僕はとくに気負いもせず「何を?」と訊いたのを覚えている。あの日の僕は、優香が僕の妻になったことで、妙な万能感に包まれていた。天変地異がおこっても僕たち二人だけは助かるような、そして、この世に二人きりになったとしても、それこそが最高の幸せのような心持ちだった。

 優香が訊ねてきたのは、小学校の入学式でのエピソードだった。
 一度しか着る予定のない子供用のスーツを身にまとい、真新しいランドセルを背負っていた日のことだ。僕は、桜の木の下に立って誇らしげに笑っている幼い日の写真でしか、その日を思い出せなかった。

 優香は、体育館へ入場する間際に、僕が胸につけていた紙製の花が取れて廊下に落ちたのを拾ってあげたのは自分だと言った。

 そんなことがあったかはもちろん覚えていなかった。それよりも、僕と優香が小学生の頃にすでに出会っていたことをその時初めて知ったのだ。

「ごめん、覚えていない」
 素直に謝ったあとで「同じクラスだったの?」と訊いた。
「クラスは別だったよ。覚えてないのはわかってた」
 優香は不機嫌にはならなかった。むしろ、とても嬉しそうにしていた。
「もっと早く教えてくれていたら、アルバムをみたのに」
 優香は「途中で転校したからアルバムには載ってないよ」と言った。

 それまで、ほとんど子供の頃の話をしたことがなかった。単に、僕らはお互い忙しく、過去を語り合う時間がなかったのだ。

 あの頃僕はある大学で研修医をしていた。優香はそこの看護師だった。

 優香は、単純に僕好みの顔をしていた。僕が優香と出会ったと思っていたあのときから、気になる存在だった。
 しばらく仕事仲間として接した。そのうちに想いを抑えきれなくなり、勇気を出して食事に誘った。断られなかっただけでなく、食事の後に告白をしたらあっさりと受け入れてもらえた。僕の想いは、一年もかからずに報われたのだ。

 しかしまだ会いたくて仕方がない時期に、新型コロナウイルスが流行しはじめた。休みもまともに取れなくなってしまった。どうにも我慢できずに、僕が優香のアパートに転がり込む形で一緒に暮らし始めたのだ。

 毎日、ただ目の前のことを必死でこなしていくだけの日々が続いていた。マスコミのいい加減な報道を耳にすることもあった。世界のあちこちで医療崩壊が起こり始めていた。
 大学病院も、通常の体制ではなかった。終わりが見えない混乱に、精神的にかなり追い詰められていた。 

 思うように家に帰れないことも多かった。
 優香は、本人もかなり忙しい中、僕を支えてくれた。
 数日ぶりに、数時間だけ家に帰れたあの晩のことを後悔はしていない。優香とは、メッセージのやり取りをしていたから、シフトはわかっていた。夜勤ではない日に合わせて帰宅した。久しぶりに優香の顔をまともに見た途端に、言いようもない愛おしさが込み上げた。

 限界まで疲れていたはずなのに、優香を目の前にしたとたんに抑えられない衝動がおこり優香を求めた。

 優香の妊娠がわかったのは、それから、ふた月後だった。優香も、忙しさで不規則になっているだけだと深く考えていなかったらしい。突然、堪えきれない吐き気に襲われて、初めて妊娠を疑ったと言っていた。

 市販の妊娠検査薬で陽性が出たと僕に報告の電話をかけてきた時、優香は、ただでさえ人手が不足しているのにと言った。
 日々、人の命を救うために走り回っている僕らが、せっかくさずかった命を諦める。そんな選択は考えられなかった。医療従事者であっても一人の人間として、当たり前の権利を有する。

 僕はその電話で優香にプロポーズした。

 親族間でも、会食はできない時期だった。遠くはなかったが、他府県への移動は避けるべきだった。それに、両親は年齢が高い分、重症化する可能性も高い。最前線にいて感染リスクの高い僕たちと会うのは望ましくないとも考えた。
 互いに、親へは、近く結婚すると電話で報告した。いずれ、今の混乱が落ち着いた後で、挨拶に行くことになった。

 もちろん、僕の母親は優香についていろいろ聞こうとしてきた。その頃の僕には、質問にこたえる余裕はなく、かなり素っ気なく「忙しいから」と、報告だけであっさりと電話を終わらせた。

 責任を取るべきことがすでにあるのだ。そうでないとしても、愛している人との結婚だ。反対されたとしても聞く気はなかった。

 入籍した日から、定期的に「ねえ、覚えてる?」と問いかけられていた。
 転校したと言っていたけれど結構長く同じ学校だったらしく、学校行事のことを小出しに質問された。
 いつも質問をしてくるくせに「何年まで同じ学校だったの?」という僕の質問は「それはいつか」と、はぐらかされた。


「小学四年生の山の家の時、一人骨折した子がいたの覚えてる?」
 言われるまですっかり忘れていた。確かに同じクラスの女子が野外活動中に転倒して右腕を骨折した。クラスで一番可愛いと言われていた子だ。今はもう名前も思い出せない。

 その頃はすでに、中学受験に向けて放課後と土日は毎日塾へ通っていた。小学校で、簡単すぎる問題を解かされるのは苦痛でしかなく、正直学校が好きではなかった。
 ゲームやアニメのことは全くわからず、クラスメイトとは話が合わなかった。

 不思議なものだ。少しのきっかけで記憶は呼び起こされる。骨折をした女子から、山の家の少し前にラブレターをもらったことを思い出した。思えば、あれが人生で唯一もらったラブレターだ。面倒でもあり、照れくさくもあったから、返事はしなかった。

 中学高校と、男子校だったせいもあって、考えればあれが、唯一の幼いころの淡い経験だ。


 質問の年代は、徐々にすすんでいった。優香が、小学六年の夏に両親の離婚で別の学区に引越ししたこともわかった。
 一度も同じクラスになっていないことも教えてくれた。
「どうして僕を知っていたの?」
「だって……」   
 僕が、学校でガリ勉と呼ばれていたことは知っていた。
「小学生の頃、すごく可愛かったから」
 思いもよらない答えが返ってきた。子供だから今よりは可愛かったとしても、周りと同程度だったはずだ。
 しかし、そう言ったあと優香は、その頃の僕の姿を脳裏に浮かべたのか、目を細めて愛おし気に微笑んだのだ。


 僕はまったく知らずにいたけれど、中学高校は優香も電車で私学へ通っていて、駅や車内で時々僕をみかけていたらしい。

 電車でも常に参考書を開いていたせいで、僕は優香に気づけなかったのだろう。たとえ、その頃僕が優香をみつけて意識をしたとしても、声すらかけられなかったはずだ。きっとなにも状況は変わらなかったとは思う。

 優香は、僕のことをよく覚えてくれていた。中学の頃、通学経路が同じでよくつるんでいた友達のあだ名も知っていた。
「あっちゃんて人、途中から見かけなくなったよね?」
 あっちゃんは、柏田淳史という名前だった。野球が好きで、笑うとえくぼができて、数学が得意だった。一つ下の妹をすごく可愛がっていた。帰り道に、あっちゃんの妹が僕に憧れていると言われたことがあった。そのうち一度遊びに来てほしいと誘われた。しかし、僕は結局、あっちゃんの家には遊びに行けなかった。
 家が全焼して、あっちゃんの家族は全員亡くなってしまった。
 あっちゃんのことは、僕の人生の中で今のところ一番悲しいできごとだった。何年も心の奥にしまっていたが、久しぶりに話したことでつい、泣いてしまった。
 優香は僕を慰めながら「ごめんなさいね」と言った。
「いや、思い出して良かったよ」
 僕の頭をなでる優香の手に手を重ねて、お礼を言った。本当はもっと、思い出してあげないといけなかった。あっちゃんが、確かにこの世に生きて、僕の友達だったということを。

 コロナ禍というのは多くの人にとって、『さざなみ』とまではいかないにしても、どこか他人事でしかないのかもしれない。
 僕たちにとっては『目の前で苦しむ人が大勢いて、時には、家族に看取られることもなく亡くなっていく』という、現実だった。大きな波が来るたびに、病院では、受け入れられるだけの患者を受け入れ、キャパシティをこえた人たちが自宅待機やホテル療養をしている。つまり、病院にはいつでもギリギリに近い患者がいる。
 無症状ないしは軽度の人は、風邪とかわらないと思うだろう。ただ、悪化してしまうと、回復までにかなりの期間がかかる。死なずとも十分に怖いのだ。
 病気は新型コロナウイルス感染症だけではない。
 命にかかわる大病を抱え、手術をひかえているひとも沢山いる。
 すべてが、平常時とは違った。
 流行が始まった当初は、一年もすればおさまるだろうと、漠然とした期待を抱いていた。
 やっと、ワクチン接種による封じ込めを夢に描けるようになったら、ワクチンの副反応がおおげさに報道された。
 たくさんの仲間が、心が折れて現場を去った。

 僕には、守るべき家族がいるから、この長い戦いにも耐えられていた。 

 優香は、できるだけ現場に残ろうとした。しかし、通常時でも立ち仕事の長時間労働だ。非常時だから、忙しさが尋常ではない。妊娠4か月の頃、切迫流産になってしまい、自宅療養になった。無理をすれば、流産に進行するおそれがあったのだ。
 優香は出血がおさまってからも、しばらく安静にして過ごした。
 安定期に入ると、職場に復帰したいと言い始めた。僕は、これ以上休めないのであれば、いったん仕事を辞めてほしいと頼んだ。
 せっかくのキャリアを一時的とはいえ手放したくない気持ちは十分理解できた。
「その気になれば、いつでも看護師として復帰できる」
 僕はその場しのぎの慰めではなく、本気でそう思って言った。
「看護師としてはそうかもしれない。だけど、また、あなたと同じ病院で働けるかわからない」
 後数か月で、臨床研修も終わる。専門医を目指す気ではいるが、まだ決めかねている。どのみち、同じ棟で働くかもわからない。今までだって、病院内で顔を合わすことはあまりなかった。

 優香に無理をさせて、生まれる前に子供を失ってしまうかもしれない。
 僕にとっては、そのことが何よりも怖ろしかった。
 なんとか優香は、僕の願いを聞き入れてくれた。

 できるだけ、家に帰る。
 優香が仕事を辞める時にした約束の一つだった。
 帰ること自体には異存なかったが、できるかどうかはまた別の問題だった。
 疲れていても帰りたかった。大きくなってきた優香のお腹をなでて、そこにある命を実感したかった。ただ、帰る途中ですぐに呼び戻されることもあった。

 優香は、仕事を辞めたあと、少し精神的に不安定になっていた。僕は一度「実家で過ごす?」と訊いてみた。優香からすかさず「私を追い払うの?」と言われたので、それ以上はすすめなかった。

 妊娠中の女性の体と心は、デリケートであるとわかっていた。しかし、理解していても、上手くは立ちまわれなかった。

 巷では、変異ウイルスがひろがりはじめ、以前より重篤化するケースが増えてきた。それなのに、自粛に疲れた人々は街へ出かけているようだった。
 緊急事態宣言も、期待ほどの効果がないままに延長された。

 今思えば、あの頃が一番辛かった。
 もうすぐわが子と対面できる。そんな希望に満ちているはずの時期だったのに。

 僕は疲れ切っていた。
 家に帰った時に、優香が眠っているとホッとするようになっていた。

 ベッドの上でなくてもいい。ただただ一人で寝転がりたかった。リビングの端で横になった。冷たく硬い床に頬を押し付けながら、僕は、なんのために生きているのかを見失いかけていた。

 目を閉じた途端「ねえ、覚えてる?」と、声が聞こえてきた。優香の声がしたのに目の前には知らない女性がいた。これと言って特徴のない顔をしていた。 

 次々と、かつて惹かれた女性たちが現れた。
 優香のような目をした子がいた。優香のような唇の子もいた。みな明るく魅力的な人たちだった。それなのに、不幸になっていった。通り魔にあったり事故にあったり、傷や障害をのこして僕からは遠い場所へ行ってしまった。
「ねえ、覚えてる?」
 さっきの見知らぬ女性の顔が切り刻まれて血まみれになっていた。

 僕は「うわ」と声をあげて、目を覚ました。心臓が早鐘を打っている。
 悪夢にうなされるなんて、心身ともに限界が近づいているようだ。

 キッチンで水を飲んで、一息ついた。

 好きになった女性たちが不幸になったのは、僕の妄想かもしれない。なぜなら、詳しい事情を知りうるほど、彼女たちとは親しくなかった。小耳に挟んだ噂話が僕のなかで事実として上書きされた可能性もある。記憶は、本人によってもよく改ざんされるものだ。

 僕の想いは、優香以前には成就したことがなかった。
 ただ、かまわなかった。優香は僕の理想そのものの女性なのだから。
 今は、妊娠の影響で一時的にすれ違っているだけだ。

 子供が生れればきっと、完璧な幸せを手に入れることができる。
 僕は、そう信じていた。

 ワクチンの接種も順調にすすみ、感染者は確実に減り始めていた。

 無事、娘も産まれ、菜々美と名付けた。
 優香の母親とは、菜々美の産まれた病院で初めて会った。優香と似ていなかった。優香は、きっと父親に似ているのだろうと思った。両親が離婚してからは、父親とは音信不通だという。
 退院して家に帰ってからも、優香は、まだ以前の明るさを取り戻せていなかった。
 産後のうつ症状かもしれなかった。母乳が思うように出ないことも、落ち込んでいる理由の一つだった。僕は、ミルクで問題ないと何度も慰めた。
 優香は、自分の母親からのサポートを頑なに拒んだ。もちろん、他人である僕の両親も同じだった。僕の両親から心配の連絡はあったけれど、菜々美のショートムービーを送るなどして、やり過ごしていた。
 僕にも、以前よりは時間の余裕ができていた。
 なかなか元気にならないので、優香にカウンセリングをすすめたけれど「そういう問題じゃない」と相手にしてもらえなかった。

 ある日、家に帰ると優香が明るく出迎えてくれた。
 ホルモンバランスからくる不調は、そういうものだ。菜々美は、ベッドでよく眠っていた。

 ようやく幸せが訪れた。そう思った矢先に、菜々美が死んでしまった。乳児突然死症候群(SIDS)だった。周りにおもちゃがあったわけでも、うつぶせ寝にしていたわけでもなかった。僕は医者だ。原因が不明であることはよくわかっていた。

 僕にとっての一番辛い経験は、友人の死から我が子の死にかわった。

 こうなると僕は、優香が心配でしかたなかった。優香まで失ったら僕にはそれこそ生きる意味がなくなる。

「落ち着いたら、また子供をつくろう」

 なぐさめるつもりだった。新しい子供ができたからといって菜々美の代わりにはならない。そんなことはわかりきっていた。それでも、僕はとにかく何かを言いたかったのだ。


「次は、男の子がいいわ」

 うつむいたまま優香が言った。

 僕は、その方がいい。菜々美と比べずにすむ。そう、思った。

 その後で「男の子なら、あなたをとられる心配がない」という、優香の声が聞こえた。

 顔をあげた優香は、満面の笑みを浮かべていた。


<了>






嬉しいです♪