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『牛肉と馬鈴薯』についての雑感


 まず私は、国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』を読んだことがない。どうやら彼の代表作らしいという程度の認識だ。
 私はかなり長い間「ぎゅうにくとばれいしょ」と読んでいたのだが、つい先日「ぎゅうにくとじゃがいも」が正しい読み方であることを知った。
「ばれいしょ」と読ませた方がインテリな感じを受けるが、「じゃがいも」と読ませた方が味わい深い気もする。
 独歩が「ばれいしょ」と読ませることを検討したかどうかは知る由もないが、私が独歩なら「ばれいしょ」と読ませて、インテリな自分を演出していただろう。私は浅ましい男なのだ。


 さらっと調べてみたところ『牛肉と馬鈴薯』は、仲間達が現実主義的な考えを牛肉に、理想主義的な考えを馬鈴薯にたとえて議論するという内容らしい。
 俗人である私には「牛肉=贅沢=理想主義」「馬鈴薯=質素=現実主義」という図式しか思い浮かばず、どうも物語の設定がピンと来ない。
 清貧を理想とする独歩の自然主義的思想が垣間見えるが、私なら牛肉に飛び付いてしまうなぁ。やはり私は浅ましい男なのだ。


 牛肉と馬鈴薯を使った料理と言えば、カレーと肉じゃがだろう。
 どちらもプラスアルファで玉葱と人参を用意し、カレールーを加えればカレー、砂糖と醤油で味付けすれば肉じゃが、くらいの雑な認識でいる。
 料理の神様はきっと心が広いから、これくらい雑に解釈していてもバチは当たらないはずだ。
 こうやって料理に対する知識・技量の無さを、「料理の神様」という謎の存在を持ち出して有耶無耶にしようとするのだから、やはり私は浅ましい男なのだ。


『牛肉と馬鈴薯』を起点にいろいろ考察した結果、「スギムラ=浅ましい」という事実だけが浮き彫りになってしまった。すごく悲しい。
 世に語り継がれる名作は、私の深層心理をも表出させてしまうのだ。だから名作なのだろう(違う、きっと違う)。
 心の中の小田和正が叫んでいるので、このあたりでお終いとしよう。

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