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青い脂(2019年特に印象に残った本②)【2532字】

2)青い脂/ウラジーミル・ソローキン

 7体の文学クローンの身体に溜まる謎の物質「青脂」。スターリンとヒトラーがヨーロッパを二分する一九五四年のモスクワに、その物体が送りこまれる。巨頭たちによる大争奪戦の後、エロ・グロ・ナンセンスな造語に満ちた驚異の物語は、究極の大団円を迎える。20世紀末に誕生した世界文学の新たな金字塔!!(「BOOK」データベースより)

 この作品の特徴として、とにかく形式を優先して書かれていることが挙げられるだろう。文体模写で書かれた文章はもちろん、本書の構成もエピグラフから始まり、執拗な注釈や巻末の単語表現の説明に至るまで、これらは必要性があって書かれたものではなく、文豪作品の形式模倣として書かれていることは明らかだろう。
 ドストエフスキー2号、アフマートワ2号、プラトーノフ3号、チェーホフ3号、ナボコフ7号、パステルナーク1号、トルストイ4号。不完全な文豪クローンが書き上げた内容、そこから抽出されるわずかな青脂。文豪たちの文体模写で構成された『青い脂』、過去の作品を弄んだ小説、そこに見出せるもの。一見ナンセンスにしか見えない小説だが、そこに感じてしまう抗いがたい魅力、価値は一体どこから湧き出てくるのだろうか。


 ここまでの説明を読むとわかっていただけるだろうがこの小説、はっきり言って読んでいても意味不明である。だが、読み終えた時には意味不明ながらも《何か》を得ている(ように思える)。この本を読む行為は作中の人物たちが《青脂》を追い求める行為と同じことであり、またそれは著者をはじめとした現代作家が己の作品を書く行為と同質のものなのではないかと思う。
 そもそもなぜ人は過去の文豪たちが書いた作品を読むのだろうか。我々がそれらの作品を読んだ時、そこに書かれたもののすべてを理解しているだろうか。これらの問いに対しては、「わからない」「すべてを理解はしていない」と答える他ないのではないか。人々は書かれているものの意味も価値も理解できない、しかしそれでもなおわけもわからずそれに惹かれ、追い求めてしまう。
 本書の文体模写で書かれた文豪クローンたちの作品には猥褻表現が入り混じり、内容は全くのナンセンスといったもので、文豪クローンを生み出して青脂を求める未来人たちもまた、意味不明な単語表現と猥褻表現が入り混じった混沌とした言語を駆使して会話をする。


 作中にて『水上人文字』の寓話が語られるが、これは複数人で《川》を泳ぎながら手に持った松明の火を組み合わせて引用文を作り上げるというものだが、これを見る大衆は彼らに惜しみない拍手を贈る。しかし、松明を掲げたまま数時間泳ぎ続けて定められた隊形を組んでいくのは困難を伴い、句点を担当していた夜兵卒イワンの松明から可燃化合物が流れ出して炎上したために引用文は崩壊し、意味を成さないものとなってしまう。それでもなお大衆は万雷の拍手喝采を続け、その拍手喝采が静んだ後、崩壊から生き残った引用文たちが行き着いた《水門》の先、《特別空間》にはもはや数少ない観衆しか残っておらず、「しかし、その各々が死すべき平民数十億人分の価値を有しており、そして各々がなぜこの夜兵卒イワン・モナホフの松明の接ぎ目が破れたかを知っているのだった。」と書かれている。
 松明はイワンが闘争という幻想、弥縫策を想い全力で松明を掴んだ時に割れ、それが可燃化合物が流れ出る原因となった。
 『水上人文字』から読み取れる内容で最もわかりやすいのは、観衆(読み手)の選別がなされている点であろう。また引用文(文章)の選別がなされていることも読み取ることは難しくない。そこに加わった《闘争という幻想》こそが難解な点であると思われるが、過去の偉大な引用文を崩壊させたそれは一体何なのだろうか。


 《文学の価値》というものは一元的には説明不可能なもののように思う。どれだけ崇高な作品にも矛盾が溢れ、その魅力は一概に定義することはできない。だが、それでも我々はそこに惹きつけられる。その矛盾に満ちた説明不可能な価値こそが人間そのものの価値であり、人間の持つ原初的な価値とは考えられないか。
 本書『青い脂』は混沌としたナンセンスな内容と、文豪作品の形式的なパロディで構成されている。過去の偉大な人物、作品、歴史を陵辱するかのようなこの小説は我々の持つ常識感、倫理観など「こうあるもの」と信じてきたあらゆる価値観を徹底的に破壊し尽くす。これまでの人生で世界に与えられた価値のすべてを失った時こそ、はじめて人間は己の根源的価値観を知ることができるのではないかと私は思う。
 どれだけ偉大だと感じる過去の作品であっても、それを(意図的でなくとも)破壊して自分だけの新たな作品を生み出そうとしてしまう一瞬の闘争心。これは人間が己の根源に位置した、原初的で唯一無二の己だけの価値感を求める欲求なのだろう。


 物語の終盤、様々な混沌の闘争を経て青脂を手に入れたスターリンの脳(価値観)は宇宙を埋め尽くし、根源的な自我と世界との和解を果たしたかに見えた。しかしその幻想は一瞬しか続かず、スターリンは鏡で己の醜い姿を確認することになる。そして物語は以下の文章で締めくくられる。

 「なあ? 俺って飛達に似てるかな?」彼は鏡の中の自分に訊ねた。
 「瓜二つでしゅよ」とスターリンは答え、憎しみを巧みに隠した目で青年を見つめた」

 これは言うまでもなく模倣者に対する憎しみの視線であり、著者自身の自著に対する感情ではないかと思われる。あらゆる表現は既に出し尽くされた現代、あえて模倣とナンセンスを突き詰めた先に《新しい価値》を生み出すことに成功したかに思えてもその感情は一瞬のものに過ぎず、次の瞬間にはその模倣にすぎない己の作品に憎しみの目を向けてしまう。
 この憎しみは謂わば決して辿り着くことのできない己の原初的な自我、唯一無二のアイデンティティを求め続けるように仕向けられた《人間の無限の探究心》という呪いのように思う。この終わりなき闘争、悲劇的な人間の性が生み出す努力の結晶こそが《青い脂》であり、だからこそ我々はそこに共感し惹きつけられてしまうのではないだろうか。

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