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エッセイ「国宝源氏物語絵巻と人間の生」

 ゴールデンウィーク中、五島美術館「王朝文化への憧れ」にて、国宝源氏物語絵巻を観た。展示作品の最後が、展覧会の目玉である国宝 源氏物語絵巻(鈴虫、夕霧、御法)だった。金箔の施された豪華な詞書に続いて、絵が描かれていた。全体的に色が剥がれてなんとも淡い印象だった。引目鉤鼻やお顔の輪郭、お召し物のふくよかさなども、優しい線で描かれている。
 その絵の隣に復元されたものが展示されていたが、それは(当たり前のことかもしれないが)国宝と全く印象の異なるものだった。国宝の絵巻とは対照的な、目が覚めんばかりの鮮やかな色には驚かされる。しかしよく見れば国宝と同様、線は繊細である。
 国宝ではほとんど見ることのできない庭の草花や襖の模様などが、明確な自信を持って補われていた。御法で描かれる庭は秋の草花が強い風になびき、御簾の内にまで秋風が届いていることを教えてくれる。復元の存在が、本来我々現代人が感知できない領域の空気までもを感じ取る助けとなっている。鑑賞者の私の心にも、ひんやりとした秋の風が吹き込んだ気がした。
 光源氏と明石中宮、そして病に伏す紫上の三人が、萩の花の露になぞらえて命のはかなさを詠み合う場面(御法)を鑑賞すると、込み上げてくるものがある。人間としての命とはなんだろう、豊かに生きるとはどういうことだろう、と考えた。私は人間の生命だけが特別良いものだなんて思いたくないのだが、私がヒトとして生きている以上、人間として生まれた哀しみがあると同様に、喜びもあることも知っている。その哀しみと喜びにフォーカスしたとき、「人間としての命」がたちまち現れると思っている。
 和歌を詠むということが平安時代の人にとってどういうことであったのか。それは創作という次元とはまた異なった自己との対話であり、他者とのコミュニケーションであると思う。死を見据えながら歌を詠み交わす三人は、人間としての生をこよなく愛していると感じた。
 愛する人、肉親との別れは、私の想像以上の苦痛であると思う。光源氏は紫上を最も愛していた。明石中宮にとっても紫上は大切な人だ。そのことを考えるとこの御法で描かれた場面が、果てしなく痛ましい場面であることがわかる。しかし、痛ましいだけではない、哀しみだけではない、何かがある。最愛の人の死を前にして、歌を詠み合う。人間としての生を惜しみなく全うしようとする紫上と、それに誠を尽くす光源氏と明石中宮。皆が皆、秘すべきほどに美しい。
 ちょっと大袈裟かもしれないが、私はやはりどんな命も美しいと思ったのだ。庭に揺れる秋草も、その露も、人の涙も、死も生も。すべてに一貫する命の輝きが、確かに私の血肉にも宿っていることを感じたのだ。
 紫上の命の灯火は、絵巻で描かれた場面の後、静かに消えた。

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