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あらためて、ありがとう。

 よく生きてたなワシとつくづく思ったのは、過去の黒歴史をかいま見たから。なんていうと大げさだけど。

命とは、ちょっとした運の良さで、たまたま続いていくものなのかもしれない。

私の場合、具体的な物証(笑)は中学校の「日々のあゆみ」。通っていた公立中学校で配布された連絡帳。上の半分は事務的な内容で、時間割りとそれぞれの課題や持参するものをメモし、下の半分にその日の感想を書く。

四十数年、実家の押し入れの片すみに放置されていた。母が亡くなった後、もはや実家に泊まる気になれず、慌ただしく実家の整理をしたのだが、どさくさまぎれに、中を開かないで今の自宅に送ってしまった。

押し入れがタイムカプセル化し、保育園で絵付けした皿に始まり、絵や習字や、さまざまなものがしまいこまれていた。いちおう自宅に送ったものの、写真に撮って、現物は捨てた。

「日々のあゆみ」や雑記や手紙は最後の最後まで残っていて、それが気になっていた。古い紙は虫がつくし、還暦を機にもういいと思って、処分することにし、軽い気持ちでページを開いたとたん、ばたんと閉じた。

パンドラの函みたいに、嫌なことがぶわっと噴出してきた。

中一の時はまだ無邪気に、今日はこれがよかった、明日はこの点をがんばろうとか、先生の受けも意識しているのか、けなげなことが書いてある。それが、中二、中三と進むにつれ、でろでろ、ぐじゃぐじゃ。まあ、暗いこと。笑うほど暗い。

じぶんには生きている価値があるのだろうか、とか、とるに足らない存在だから死んでもいいとか、そんなこと考えても、ねェ。ヤスパースだったっけ、人間はいやおうなくこの世に放り出され、生きていく。

今でいう中二病というのだろうか。中二病なんて聞いても、ふーん、子どもいないし、私、関係ないわ、と、思っていたが、なんのことはない、おのれがずっと中二病の延長だった。

それにしても教師という仕事は本当に偉いと思う。授業の他に、受け持ちの生徒の「日々のあゆみ」に赤字でコメントし、帰宅までには戻してくれたのだから。先生方、ひねくれまくりの私とつきあってくださって、本当に、ありがとうございました。

 数日分、読み返してみて、昼休みに通ったプレハブの図書館を思い出した。教科書に掲載されていた安岡章太郎の「サーカスの馬」、田宫虎彦「卯の花くたし」、渡辺淳一「阿寒に果つ」、なんか暗い小説ばかり好んで読んでいた。その前は「小公女」。無意識に気の毒な人の話にひかれていた。家庭環境に翻弄されていたからだと、今は思う。

気分屋で暴力をふるう父、幼い頃の心の傷を無意識に長女にぶつけていた。じぶんを守るために私を守れない母。母もまたそれしかすべがなかったと、還暦の私は理解している。

環境にひきずられて、今なら陰キャで、毒虫にみたいに仲間外れにされたかもしれない私を、その時々、受けとめてくれた数人のクラスメートのありがたさ。これも、今だからつくづく有難いことだ。

 第二の物証、高校時代の雑記と卒業後に同級生とかわした手紙の一部も読み返したが、それを再認識した。振り返れば、同じ高校の人たちは、勉強もだが、人格もできた人が多かった。特に私に進んで声をかけてくれる人は、そうだった。

 ひとりで生きてきたような気でいるが、やはり、たくさんの人に気にかけてもらえるから、生きてこれている。

 コロナ禍になってからは、SNSで昔からの友だち、まだ会ったことはない後輩、同じふるさとの方、さまざまな方と、ほどよい距離での交流がある。これもまた、有難いことだと思う。

 ほんとうに、みなさん、ありがとうございます。これからも、どうぞよろしくお願いします。


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