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「粋」

菓子は滅多に食べないのだけど
小腹が空き探してみたら賞味期限が切れた駄菓子が同銘柄の味違い3種出てきた。

自分は賞味期限が大変いい加減なものだと思っており自分の味覚と嗅覚を信じているゆえ躊躇なく食った。

不思議なもんでふと食べた菓子にも発見はある。
中でも一つだけ「味が少し濃く」作られていて、これにハッとした。

リピートするお店、何度でも食べる商品、ふと思い出す味。
そういうのは食だけではなく何事でも大切だと思う。

記憶に引っかかる尖りのある味。駄菓子としての「役割」を捉え作られ神経が先端まで通っている。

それで思い出したのは随分前に見たTV番組。

「コンビニスイーツを複数のプロ料理人が批評する」という内容だった。今も放送しているかは知らない。

プロと言っても、不思議と批評内容や味わいの感じ方は結構みんなバラバラで、その光景を見て「味は主観的に表現されるモノ」という事も知った。

そのバラバラのコメントの中
ひとりの料理人が発したコメントが印象的だった

主観的コメントしかない中にあって唯一
「客観的コメント」を言ったからだ。

とりわけ印象的だったのは

「確かに甘くて凡庸な味です。けどコレ女子高生が買うんですよね?そうしたら味の感じ方が違います。だからこの値段と味と見た目は最高の商品だと思います。」

確かそんなコメントだった

これが「役割」を捉えた批評だと思う。

「リピート」に関して重要なものに
「余韻」があると思う。

「味」に限定すれば、食後の後引く感じ、お腹が空くと思い出す味、そういう余韻の事。

それで最近「こういう余韻もあるのか!」と
今更ながら発見した食がある。

それが「蕎麦」である。

あるお店の蕎麦を食べた帰り道
どこかまだ蕎麦を食べている様な
甘さや香りが口内に残るリアルな感覚がある
それは心地良く長時間に渡り続く。

その余韻を残す為に別のものは口にしたくない
そんな思いになる。

意識しないと気がつかない程あまりにも自然で、淡い味わいの中にあり、こういう余韻が存在するのかと。

それは余韻というより記憶なのかも
主張せずに、静かで、詫び詫びを感じさせる
それは“日本らしさ”なのかなぁと思う。

と思ったら、その余韻は「蕎麦」由来というより「そのお店の蕎麦」由来の余韻だと気がついたのは再度食べに行った時。

それが「また食べたくなる」の正体だと気が付く。

長く続くお店は何かしらそういうものがあるものだけど、この発見は嬉しかった。いやはや気がつかないくらいの余韻が其れとは。

何とも「粋」だなぁ











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