「食」
◇先日、スリランカ式のワンプレートを食した。
見た目に極彩色の料理はスパイスふんだん、香り食感を含めて味についてもやはり極彩色だった。
日本人ならこういう組み合わせはしないだろうなぁ。具材に入っていたパイナップルを食べてそう感じた。こういう発見が外国の料理にはある。
◇辛かったり甘かったり、五味の振り幅が激しくも、食べ進める中あるいは混ぜたりすると、一体感が出る不思議。
食べながら考えていると「その土地の料理はその土地の人を表す」とそんな気がしてきた。
食べ物は身体を作る。それが人に対し何も影響しないと考える方が無理があるのではないか?
またそれが伝統的に食べ続けられている食であれば尚の事。遺伝子情報に組み込まれているとしても不思議はない。きっと考え方や思考にも影響している。
様々な国の食を思い返すとそういう確信に近いものがじわりと湧いてくる。
◇南インドに隣接したスリランカ。
海に囲まれているから料理に魚介が多く使われる。また鰹だしを使う事も多いのだとか
※モルディブ・フィッシュを鰹節の様に加工する
南国という事もありココナッツミルクも多用される。甘く芳しい香りはマイルドな味に一役買う。
当然スパイスは大量に。食材数で言えばこのワンプレートもスパイス含めれば50種近く入るのだとか。
“スパイス”が地域の食の世界観、その中心にある。
先ほど「極彩色」と表現したが、画的に言えば「曼荼羅」にも感じる。無数のスパイスの交わりは一見無秩序に見えるが俯瞰すると正確に秩序立って正確。
そして美しい。
◇「食」が合うと「人」が合う。
食が身体を作り、考え方や思考に影響するのならば、そう考えても違和感はないと思う。
例えば食が全く合わない国と国というのがあれば、人と人も合わない可能性が高い気がする。
また「同じ釜の飯を食う」という言葉がある。食が人を作るのであれば、これにも一定の合理性がある。共同体としての結びつきが強くなるからだ。
同じ様に「盃を交わす」や「乾杯」なども飲食を共にして人と人の結びつきの意になる。
意識的な結びつきというより無意識下の結びつきかもしれない。おそらくそっちの方が正しい。
◇以前、食事は無駄だからと栄養素パウダー(プロテインみたいなやつ)を飲んで一食数十秒で済ませるという若者がSNS上で話題になった。
彼の場合は意識を優先しすぎて無意識を無いものとしている。だからタイパコスパとよく言う。全てに意味が有る意味が無いと「意識」至上主義になっている。そんな馬鹿なと思う。
「水が飲みたい」そう思う前に、既に脳は反応している。その後、水が飲みたいという意識が生まれ、水に手が伸びる。無意識から意識が生まれている。
彼の場合、食を粗末に扱うため、人も粗末に見ている可能性が高い。おそらくどこかでしっぺ返しをくらう筈だ。
たかだか脳みそ1400グラムが知覚認識できる世界なんてほんの僅かであり、意識できない無意識を無駄と切り捨てるのは、些か乱暴なことである。
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