見出し画像

正しさの奴隷。

先日、桐島容疑者と見られる男が死亡した。50年に渡る逃亡生活の後、死期を悟ったのだろう本名を名乗り程なくして亡くなった。

おそらくだがある種の安心感、ホッとしたのだろう。病は気からと言うように、またその逆もある。気が抜けた事で安らかに死んでいったであろう事は想像に難くない。

極めて個人的には50年という逃亡生活がどのように行われたのかには興味がある。物心ついた時から知っている手配写真の男が今更現れるとは思ってもいなかったからだ。

見方によってはこの件は警察の敗北とも言える。しかしながら女性に対し「自分は幸せにできるタイプではないから」と交際を断り「最後は本名で迎えたい」と後悔の言葉を残したという事だから桐島容疑者こそ圧倒的な敗北者と言える。

ネット社会には特定班と言われる人達がある。当然ながら今回の件でも川崎の工務店は特定されただろう。確認はしていないが相当の時間が経っている事を考えると少なくとも絞り込みまでは完了しているだろうし、もしかすると既に私刑が行われているかもしれない。

思うに昔の工務店というのはある種社会の“受け皿”になっていたと自分は考えている。身元もしれない男、何か事情を抱えている男。それは犯罪者かもしれないし、何かから逃げている人かもしれない。いずれにしても社会からはみ出た者に衣食住を与えていた。その人達に対しあれこれ詮索しないというのは当然暗黙の了解だっただろう。

一方で「そんな危ない人達はこの世にいてはいけない」そういう思想がある。それはネット社会でいえば特定班というのもそうだろう。悪に立ち向かう勇ましい班と言うのかもしれない。

世の中には徹底的な清潔を求める人達が相当数いる。そして正義と悪という二元論のわかりやすいラベルを人に貼る。ただ世の中はそんな単純にできていない。毎日歩いているその道路は身元も名前もない人が一生懸命に作ったのかもしれない。

見たくないモノ、認めたくないないモノを「無かった」としたい社会とも言える。例えばその象徴に「死」がある。

墓は柵で目隠しされ、人知れない場所に造られ、死は多くの場合病院という人の目に触れない場所で迎える。また例えば精神病院は人目につかない場所に建てられるし、建設が予定されれば住民の反発が起こるのも常。

要するに「臭いと思うものに蓋をする」事で「見えなくする」というのが基本的な構造なんだろ思う。良いも悪いもここにはなくて人間の本能だと思っている。

車のハンドルに「遊び」があるように、社会の基本的な構造として「ゆとり」が遊び同様に存在している。これがない車なんて危なくて10メートルすら運転できない。

世の中は白と黒だけではなく、白から黒までがグラデーションになっている事が分からない人がいる。そんな馬鹿なと思う。今回の件に関しても社会保障はどうなっていたのか、税金はどうしていたのか、違法行為を指摘するべきだ、などの声がチラホラあるがまともな大人ならそれぐらいわかるだろう。よって中高生の言葉なんだと思うが、正義と悪に分けたわかりやすい物語を信じ過ぎと思う。そこはちゃんと大人が教えてあげるべきだろう。

「世の中にはいろんな人がいる」って当たり前の事を、見ようとしない社会が定着した事が現代の「生きにくい社会」というワードの根っ子だと思っている。

その反発の現象として多様性が言われるが、一昔前のそれは個性という言葉だったと以前書いた。

ただ自分としてはその前に「他者への想像力を養う」必要があるだろうと思う。もっと噛み砕けば「人の気持ちがわかる心」と言える。

そういう所、世の中の先生たちはどの様に教えているのだろうか?

ぜひ教えてほしい。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?