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「空」

◇祖母が亡くなったその年に、庭にある柿の木と柚子の木が同時に枯れた。一緒に逝ったんだなと思った。

家主が死ぬと家の端々が壊れ始めたり、故人が大切にしていたものが壊れたり、また自分の祖母の様に庭の木が同時に死ぬという事がある。

人が死ぬとそういう事があるのは経験則で知っている人は多いと思う。見えない何かで繋がっていたとしか説明できない様な事がある。

日本では人が死ぬと故人の茶碗を割る風習がある。今では知らない人の方が多いかもしれない。

なんとなくだが、茶碗を割る事と、故人に繋がる何かが壊れる事に、何か関連がある様な気がしないでもない。


◇「虫の知らせ」という言葉がある。若い子は聞いたこともないかもしれない。何か予感がしてそれが的中する事を言う。

以前勤めていた会社の同僚は、自身の父親の死を遠く離れていながらも感じた。まだ高校生の頃の話で「あっ死んじゃった」と感じたそうだ。病気で入院中だったらしい。

こういうのも不思議な事じゃない。やはり何かで繋がっているから、それに虫の知らせという言葉が付いたのではないか?


◇10年以上前。しょっちゅう一緒に飲みに行った当時の盟友が北海道に引っ越した。

連絡もあまり取らなくなった頃、ふとその人の事を考えて唐突に電話をかけてみたらその人も丁度いま同じ事を考えていた、という事が2度程ある。

虫の知らせとは違うけれど、やっぱ説明のできない何かあるんだろうなぁと思った。

そういえば僕たちは意図せず互いのスマホの待ち受け画像が同じ写真だった事がある。偶然の一致を友人に気味悪がられた事もあるそうだ。

とはいえ今ではその盟友とは疎遠になった。

互いの価値観の置き場所が変わったからだと思う。もちろん、そう話した訳じゃない。互いに「丁度同じ事を考えていた」そういう事だろう。


◇「死に目に会う」という言葉がある。そういう言葉がわざわざ出来るのには訳があると考えた方が自然だと思う。

その「死に目」に家族がタイミングよく病院に集まると言う事はごく当たり前にあるそうだ。それぞれの生活があったとしてもなぜか都合良く家族が集まる。

別にスピリチュアルな話ではない。以前、仲が良かった幼馴染の看護師から聞いた話。

ちなみに病院で「出る」というのも普通の事らしい。信じているとか信じていないとかの話ではなく実際「出る」ので当たり前の事と皆は捉えているそうだ。幼馴染は信じないタイプだった。


◇そう言えば自分の祖母の場合も家族は2人除いて全員が集まった。多分、祖母は自身の死にそれを望んだんじゃないかと思っている。

逆に伯父は一人でひっそり亡くなった。また、何も残さず去った事を後で知り僕は笑ってしまった。そういう人だと思っていたから何の不思議も無かった。


◇現代「死」は忌み嫌われの対象で生活から見えなくなってしまっている。

また、言ってはいけない言葉になっている様でネット動画なんか見るとテロップの死の文字が○になって、もはや隠語の扱いだ。テレビはどうなっているかは観ないので知らない。

だけど、死は自ら掴み取るものなんだと、僕は何となくそう思っている。




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