生きる気力がない人間が生きる理由とは

私は自殺するのが面倒臭くて結果死んでないだけの人間である。

生きたいか死にたいか選べと言われたら、死にたいを選ぶ。

でも苦しいのも痛いのも嫌なので、苦しまず痛みを感じず楽に死ねるなら、の話であって、そうでないなら、しょうがなく、生きる方を選んできた。

まあ生きてれば面白い本やアニメやゲームに出会えるし、それは確かに楽しいことだし、ハッキリと生きることを拒絶するほど今は不幸ではない。

不幸ではないけれど、鬱になって明らかに生き難くはなった。

偏頭痛持ちの私は先日の爆弾低気圧にやられてここ数日寝込んでいる。寝込んでいるといってもしんどいときとわりと楽なときと波があるので、楽なときにちまちまと仕事や家事をこなしていた。

けれど今日はとてつもなく頭痛が酷くて、熱も出て、部屋のLED照明の灯りすら眩しくて頭痛に響いて、電気を消して布団に潜っていた。イブもバファリンルナもロキソニンも効かない。病院から処方される偏頭痛用の薬でなければもう無理で、けれどその薬は生憎と切らしてしまっていた。

食器を洗う気力もなくて台所には洗っていない食器と調理器具が積み重なっている。念のため買っていた割り箸と使い捨て容器で食事をとるか、カップ麺で済ます。部屋は先月引っ越したというのに片付け途中のままクローゼットの前に細々したものが山積みになって、洗濯物も畳んでしまうのが億劫でタンスの前に積んである。

そんな家の中、頭痛でぼーっとしながら、布団に潜っていて、ふと思った。

生きる気力のない人は、どうやって生きているのだろう。

鬱になる前、私は借金や税金の滞納をしている人を相手にするような仕事をしていた。

私は裏方で、実際にそういった人達と話したことはない。ただ窓口の対応は聞こえていて、障害や病気などで働けない人はともかく、そうでない人はどうしてちゃんと働かないのだろうかと不思議に思っていた。

それが今日腑に落ちた。あの人達は、積極的に生きたいわけじゃないけど積極的に死ぬ気もない人達だったのだ。

「積極的に生きたい」という気持ちがないと、本当に何もする気が起きない。当然、働くことすら真面目に向き合う気にもならない。

クソッタレだなと我ながら思うが、しかしながらそうなのだ。

オタクでいることがかろうじて私を生きることに繋ぎ止めているけど、もし楽に死ぬ選択肢ができたらきっとこんな状況になったときそっちを選ぶだろう。

ミソッカスな私に税金から支出されている金を使うなんて勿体無い。実際私はギリギリまでそういった制度には手を出さなかった。今の日本の余裕のなさはなんとなくわかっているつもりだし、私よりお金を必要としている人はごまんといるだろう。そもそも各業界低賃金で必死に働いている人がいるのに、ただ「死ぬ良い方法がなかったから」というだけで、ただ死んでないだけの人間を生かしておくためにお金を使うなんて、勿体無いことこの上ない。

だけどそういう人達を"救う"制度がない。

安楽死とか尊厳死とかだけじゃなくて、生き甲斐を見つけてくれるとか生きる楽しみを教えてくれるとか、何かしらの生きる理由を与えてくれる"何か"。どんなくだらないことでもいい。その人にとって生きる理由になればいい。でもそれを教えてくれたり与えてくれたりする人はなかなかいなくて、だから"死なないだけ"の人間が蔓延っている。

昔はオタクとして作品を楽しむことが生きる理由だった。でも好きな作品がどんどん終わりを迎えていって、見届けられた満足感と寂しさに襲われるうちに、いつの間にかオタクであることは生きる理由に匹敵するほどのものではなくなってしまった。

だから無理をして無茶をして働こうとは思わなくて、とりあえず自分がそこそこ満足できるぬるま湯のような生活をダラダラと続けてしまっていて、けれどそれが悪いのかどうかわからなくて、ただ死んでないだけの生活を送るようになった。

誰にも迷惑をかけていないわけじゃない。それはわかっている。でも許される程度の迷惑しかかけていない。その状況に甘えている。

そういう人間はたぶん私が思っているより多いのだ。

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