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世界を変える一歩_240806

2024.08.06.Thu.

いつもより少し早起きをして、パソコンを開く。

「広島 平和記念式典」の中継。
今年は公式の中継がYouTube Liveに変わって少し見やすい。

ちょうど去年のこのタイミングは広島にいて、1年という時の長さとその重さをなんとなく実感しながら、部屋着のままじっくり試聴。

別に批評するものではないけれど、あえて雑感を残しておくとすると
市議会議長の式辞にあった「未来志向」という言葉に集約されている印象。

そして「日本」や「広島」に留まらず世界平和に目を向けた式典という特色が色濃かったように思う。

日本国憲法前文では「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する 権利を有することを確認する。」と謳われています。 戦後世代が大半となった現代を生きる私たちに求められるのは、自国のことのみに専念して他国 を無視する国家の暴挙により平和が危機に瀕していることに目を向け、世界の誰もが平和を享受 できるよう強い信念のもと連携して歩みを進めていくことです。

広島市議会議長「式辞」より

核抑止力を超えて、今年は35年前の冷戦締結(1989年)のことに何人かが触れていて、

例年以上に、危機感というか、今私たちがやらなくてはならないのだ、という焦燥感を含んだ使命感が色濃かったように思う。

本当にこのままでよいのでしょうか。
願うだけでは、平和はおとずれません。
色鮮やかな日常を守り、平和をつくっていくのは私たちです。

こども代表「平和への誓い」より

子どもたちの言葉が胸に刺さる。

今日も地球上では戦争が起こっていて、心を痛めつつも、遠くの国にいる我々はそのことにどこか慣れてしまっている部分もある気がしていて。

「国際平和を誠実に希求」するということは、どこか理想を追い求めるみたいなニュアンスを含むけれど、

だけど、どう考えたって今、この瞬間起こっていることを変えられるのは、今この瞬間を生きる私たちしかいない。

核廃絶は遠くに掲げる理想ではないのです。今、必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題です。

広島県知事「あいさつ」より

原爆の被害を忘れない、とか、戦争体験を語り継ぐとか、そういう次元ではない式典で、
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑(=広島平和都市記念碑)に書かれた文言のことを強く思い出す朝だった。

私たちは「戦争はダメだ」と知っている。
だけど79年前にはそれが共通認識ではなかった。

なぜか。

だってそれが当たり前だったから。

だから、「学徒出陣」はあったし、広島・長崎では悲惨なことが起こったし、沖縄では地上戦が繰り広げられた。

疑わずに突き進む世の中だった。

だってそういう世の中で、それが当たり前の世界線だったから。

だけど、今を生きる私たちは、「戦争はダメだ」って知っている。

なぜか。

それは経験したから。
〈私〉は経験していなくても、人類という括りでの〈私たち〉が経験したから。

先人たちからの教訓をどう未来へ繋ぐか。

「戦争体験者・被爆者が少なくなってきている」みたいなことさえ言われて久しい現在、
それが、鋭さを持って問われている気がする。

平和活動をする、ちゃんと選挙にいく、自ら学ぼうとする。

なんだっていい。今、私たちは「世界平和のために手前は何をするのか」ということを、真正面から問われているのではなかろうか。

今、自分は何かできているだろうか、という
自分は自戒も込めて。

そして今年のこども代表「平和への誓い」は、こんな言葉で締まる。

世界を変える平和への一歩を今、踏み出します。

こども代表「平和への誓い」




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