240310_演じるという経験
2024.03.10.Sun.
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講座スタッフとして、ちょい役で出演しつつ演出助手的な立ち位置で関わっていた、宇治市文化センターの源氏物語朗読劇講座「宇治っ子朗読劇団⭐︎Genji」の第12回定例公演「紫さんを待ちながら」が無事に終演しました。
ご来場いただいたみなさま、応援いただいた皆様、ありがとうございました。
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全部が終わった後、お疲れ様会があって
講師陣だけではなく、出演した子どもたち一人ひとりに感想をもらう、、、というのが恒例だそう。
今回もまた、例外なく子どもたちが1人ひとりにひとことずつ。
すると、何人かの子が恥ずかしくて?緊張して?話せない或いは立ち上がれないのである
さっきまで舞台で何百人の前で堂々とお芝居をしていたのに、数十人の前で感想を言うとなると閉ざしてしまう。
周りの大人からするとびっくりしちゃうけど、当人からするときっとそのハードルは全然違うのだと思う。
たしかに俳優をやるような人は、人と関わるのが苦手だったり、根暗だったり、言葉足らずだったり、だよねと言う話はしばしば聞くこと(もちろんそうじゃなく第一線で活躍する人もいるけど)。
別に芸術家を気取るわけではないけれど、
誰かと関わることにコンプレックスやハードルがある人ほど、
自分の肉体と声で表現することに取り憑かれていくんじゃないかと思うこともある。
最近はコミュニケーション教育にも演劇が活用されはじめているけれど、
きっとそれもそういうことなのかもしれない。
確かに振り返ってみれば、
うちの劇団員も人前で話させればたいがい口下手だし、
前説やカーテンコールの挨拶をするハメになった人たちは本編よりも緊張している。
演じるという表現方法はなんとなく他の表現とは違っていて、ゼロイチの作業が基本的には存在しない。
一方で、すでにある役の感情と自分肉体とを俯瞰しながら、1を100に、文字面を立体にアウトプットをしていく作業は、ゼロイチの表現と同様に、むしろそれ以上に自分の心身を削りながらコントロールしなくてはならない。
だけど今思えば、だからこそ、自己と向き合うのにしんどくなってしまったとき、そうなりやすい思春期に、演劇に取り憑かれてしまったのだろうし、
EQなんかを知って、自己のコントロールや人前で瞬時に話すことに慣れてしまった今、俳優という職業に一切の憧れや執着がなくなったのかもしれない。
子どもたちにしてれば、(自分ではない)役だから、(話すことが決まっている)作品の中だから堂々と生きているのであって、その鎧が無くなった途端に、他が怖くなるのだと思う。
果たして、なにが言いたいのかわかんなくなってきちゃったけれど、自分の心身は自分で守ることが求められるこの世界で、少しでも心を軽くする術・場所をひとつ手に入れられるきっかけに関われるのだとしたら、
こういう活動も、ちゃんと続けたいな、と思った帰り道。
https://www.instagram.com/p/C4VmPlOJ_ni/?igsh=MTB2bnI4YTEwbHp6Zg==
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