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ひさしぶりに見上げた空は

もっとコンスタントに書いていこうと思っていたのに、だいぶ間があいてしまった。ここ最近、気分が塞いだり考え込むことが多く、気付くと部屋でひとり、ぼーっと宙空をみていたりするので、夫にも「おーい、大丈夫かー?」と目の前で手を振られたりして心配されている。理由は、自分ではよくわかっているのだけど、いろいろと複合的で、こうだから、と簡単に言える感じでもない。ただ、これからの生き方や、仕事との向き合い方について、自分のなかで少しずつ考えに変化が生じ始めていることだけは確かだ。

そんなこんなで毎日ぼんやりと過ごしていたら、あっという間に春がきた。
寒波の到来で昨日も今日も寒いけれど、陽射しはもう冬のものではなくて、光のトーンが一段明るい感じがする。この週末の予想最高気温は20度にもなるらしい。家に篭っているのもなんだし、散歩でもしようと外に出た(花粉はつらいけど)。

家の近くを流れる川沿いに、遊歩道がある。川の両岸には桜の木がずらりと並んでいて、毎年、桜の開花時季には、やわらかなピンクのトンネルと化した遊歩道を、ゆっくりと歩くのが楽しみのひとつ。花が落ちると、今度は緑のトンネルとなって、足元にはびっしりと花びらのじゅうたんが敷きつめられる。
そういえば、あの遊歩道って桜の季節にしか歩かないなぁと、ふと思い立って、行ってみることにした。

遊歩道を歩きながら、目線の高さでしな垂れる桜の枝を見てみると、葉がすべて落ちきった裸の枝のところどころに、硬く締まった小さな蕾がびっしりと付いている。ああ、もうすぐだね。そのまま顔を上に向けて、深呼吸をしながらしばらく空を眺めた。枝の合間で、吸い込まれそうな青と白が混じり合う。こんなふうに空を見上げるのって、ずいぶんとひさしぶりな気がする。
花の時季にはたくさんの人が歩く遊歩道だけれど、今日は犬と散歩中の男性とすれ違っただけ。静けさのなか、桜の木は新しいシーズンに向かって、ひっそりと準備を始めていた。

そうだ、あの店に寄ってみよう。
遊歩道を歩き終えたその少し先に、小さな菓子屋さんがあることを思い出した。何度か前を通ったことはあるのだけれど、定休日だったり、夜だったりしてタイミングが合わず、気になっていたのだ。
以前、閉店後の暗い店先のガラス窓に書かれた品書きを、立ち止まって眺めたことがある。イタリアの焼き菓子専門店で、カンノーロはその場でクリームを詰めます、と書いてあった。カンノーロ! イタリア料理店のドルチェにあれば、必ずオーダーする大好物だ。

店内へ入ると「いらっしゃいませ!」と、明るく元気な女性に迎えられた。コックコートを着ているから、彼女がパティシエなのだろう。1人でやっているようだ。
焼き菓子はカントゥッチやバーチ・ディ・ダーマなど、いかにもイタリア!なアイテムが数種類。焼きっぱなしの飾り気のなさが、とても好みだ。隣の小さな冷蔵ケースをのぞくと、生菓子はモンブランとタルトが2種類、そして、筒状にして揚げたカンノーロの生地だけが皿に積み上げられている。

どれも全部おいしそうな顔だなぁ。デパートなどで、きれいにデコレーションされた生菓子がずらりと並んだ光景を見ても、全部同じに見えてしまって、食べたい!と思うものがひとつもないことがある。ここのお菓子はその逆だ。すべてが茶色くて素朴だけれど、なんだか目が離せない。
少し悩んで、焼き菓子を2種類とモンブラン、カンノーロに決めた。
会計を済ませ、焼き菓子を紙袋に、モンブランを小さな箱に入れて手渡されたあと、パティシエの彼女から「では、これからカンノーロを仕上げますね。袋に入れますか?」と訊かれたので、よく考えずに「はい」と答えると、「少しお時間をいただくので、よかったら座ってお待ちください」と、店内の小さなベンチを指差し、奥の厨房へと向かった。

ベンチに腰掛け、次はどれにしようかなぁ、と考えながら焼き菓子を眺めていたら、カチャカチャカチャ……と何かを混ぜる音が聞こえてきた。立ち上がって、売り場と仕切りのない厨房のほうへ目をやると、ボウルに入れたリコッタクリームの材料を、泡立て器で混ぜているではないか。つくりおきのクリームを詰めるのかと思っていたら、そこからやるなんて。1本しか頼んでいないのになぁ。なんだか申し訳ないと思いつつ、嬉しい気持ちでいっぱいになった。あぁ、早く食べたい。

できあがったクリームを絞り袋に入れ、カンノーロの筒のなかへ詰める。筒の両端にそれぞれピスタチオとアーモンドを散らし、粉糖を振って薄紙にのせると、それを紙袋に入れて渡してくれた。
「わぁ、本当につくりたての詰めたてなんですね」
「30分以内に食べてくださいね」
「ありがとう、もちろん!」
帰りは最短ルートを選び、競歩のごとく早足で帰った。スーパーへ寄るつもりで大きなカゴを持っていたけれど、また明日にすればいいや。早く早く!

帰宅してすぐに紙袋を開けると、カンノーロ1本と一緒に保冷剤を入れてくれていて、はたと思った。そうだ、急いで家に持ち帰らなくても、遊歩道のベンチですぐに食べればよかったんだ。薄紙に包んだままで、手渡してもらえばよかったな。

お茶を淹れる時間くらいはいいかなと思って、カンノーロをお皿に移したけれど、いいや、やっぱりその時間がもったいない!と、立ったままかじりつく。
カンノーロは、いままで食べたどのカンノーロよりも優しい味で、油っこくなくてサクサクの生地も、軽やかなリコッタクリームも、口のなかで儚く溶けた。

次は、桜の木の下で食べよう。蕾はどのくらい、膨らんでいるだろうか。

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