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小さな甘さに救われる

4日前から術前の化学療法が始まった。まずは半年ほどかけて抗がん剤を投与し、がんをできるだけ小さくしてから手術を受ける予定。
自慢にも何にもならないが、我が乳がんは細胞の増殖スピードがとても早いらしい。何をするにもゆったりペースの鈍くさい人間なのに、どうしてこんなにアクティブな極悪細胞を宿してしまったのか。実際、初めてクリニックで検査を受けたときからたった2ヶ月と少しで、しこりの大きさは2倍になっている。
なので、通常は3週間に一度のペースで投与する抗がん剤を、2週間に一度とサイクルを縮めることで、どんどんやっつけましょう、ということになった。ただし、その分副作用はきつくなりますよ、と。
それはそれは苦しい吐き気やだるさに襲われるという話も聞いていたので不安だったが、いまのところ副作用を抑える薬の効果もあって、軽い吐き気や喉のつかえ感、なんともいえない倦怠感があるにはあるが、動けないほどではない。副作用もまだまだこれからが本番なのだろうけど。あと数日したら、脱毛も始まるだろう。

その話はまたあらためるとして、検査続きのこの夏のことを、少しばかり。

あれは、胸部のMRI検査を受けた日のこと。血管に造影剤を流して画像を撮影するのだが、人によっては、この造影剤で気分が悪くなったり、アレルギー症状が出ることもあると聞き、ちょっと身構えていた。
検査直前に腕に針を刺し、造影剤の入った注射器を繋いだ状態でカプセルにうつ伏せになる。ちょうど胸の部分にふたつの穴が開いていて、そこへすっぽりと乳房を納めるという、なんだか間抜けなスタイルだ。そのまま何も見えない状態で約30分、身動きせずじっとしているというだけでもつらいのに、口元はマスクをしたままで息苦しいし、ボサノバが流れるヘッドフォンを頭にかけてもらっても、けたたましい機械の作動音は鳴り響くし。
早く終わらないかなぁ、でも造影剤の気持ち悪さはまったくなかったな、よかった、心配したけど平気だった!なんて考えながら15分ほど経った頃だろうか。

「じゃあ、今から造影剤を入れますね」と、ヘッドフォンから技師さんの声が聞こえた。え、え、これからだったの?
それからすぐ、注射器がちゅーっと押されたのだろう。途端に、全身の血管が熱を持ったような、なんとも言えない、ぞわわわわ、という嫌な感覚が体を巡った。そして、軽い吐き気。
何かあればすぐに押してくださいねと、ブザーを持たされていたのだが、どうしよう、これは押したほうがいいのか、それともこのくらいは当たり前の反応なんだろうか? と、気分が悪くなりながらも頭の中はぐるぐると、いろんなことを考えていた。
1〜2分もすると吐き気は徐々に楽になり、ブザーを押すことなく検査を終えたのだが、終了後、技師さんに「少し吐き気がしました」と言ったら、「え!すぐ先生を呼びますね」と急にバタバタ。検査室の医師がやってきて、血圧を測ったり、酸素飽和度を測ったり。特に問題はなかったけれど、「次はすぐに伝えてくださいね」と言われ、やっぱりブザーを押すべきだったのかと反省。もっと重大なことが起きたら大変だもんね。検査室を出たあと、ベンチで少し休憩をしていたら、体にいくつか発疹も出ていることに気づいた(すぐに消えたけれど)。

そんなこんなで、この日はMRI検査だけだったのに、ものすごい疲労感。終了後は夫の店でランチを食べることにしていたので、会計後に直行した。
暑い日だったから、前菜のヴィシソワーズの冷たさが胃の腑に沁みる。主菜は牛サガリの炭火焼きをチョイスした。たくさんは食べられないと思い、通常の半量で焼いてもらったが、それでもなかなかのボリュームだ。
ようやく食べ終え、ちょこっと甘いものが食べたいな、自家製アイスクリームくらいなら入るかしら、なんて考えていたら夫が目の前にやってきて、「カレー食べる?」と訊いてきて耳を疑った。いや、あの、前夜にランチメニューを確認したとき、カレーもいいなぁ、とは確かに言ったけれども。

「ひとくちね、本当にひとくちだけね!」
断らない私も私だが、はたして目の前に現れたカレーはスプーンで10回はすくえる量があり、さらに上には、自家製ハムとチーズを交互に重ねたミルフイユカツがのっていて唖然とした。なに考えてんのー!
普段から、食べものに限らず、あれもいいな、これもいいな、なんて呟いていると、それをしっかり覚えていて、叶えようとしてくれる夫らしい計らいではあるのだけど、さすがにびっくりした。「残してもいいからね」と言ってくれたが、大好きなカレーは残せない! ゆっくり時間をかけてなんとか完食。もうぐったり。

満腹ヨレヨレ状態で店を出たけれど、しかし何かが足りない。そうだ、甘いものだ。アイスクリームを食べようと思っていたのに、そんな余裕がなかった。
その足で地下鉄に乗り、いつも行く日本橋のデパートへと向かう。今じゃなくていい、後で胃袋が落ち着いてからでいいから、どうしても甘いものが食べたい。
今日のような、肉体疲労とはちょっと違う疲労感には、絶対に甘味だ。でも、量はいらない。ほんの少しでいい。特に今日は和菓子でも焼き菓子でもなく、とびきりおいしいクリームを少しだけ食べたかった。
頭の中には、オーボンヴュータンの小ぶりなケーキが浮かんでいる。あの絶妙なサイズに、しっかりとした甘さ。いま私が欲しているのは、まさにあれだ。

デパートに着いて、少し離れたところから店のショーケースを窺うと、時は夕暮れ近く、もう空っぽだった。あぁ、間に合わなかった。
がっくりしながら他の洋菓子店のケースを見て回るも、食べたいという気になれなかった。仕方ない、諦めて帰るか…と思いつつも、いや待てもう一回、目の前でちゃんと見てみようと、オーボンヴュータンの目の前まで来てみたら。コーヒー風味の小さなエクレアが、ケース下の目立たないところにひっそりと、たった1個だけ残っているではないか。うわあ、待っててくれた!と思った。
ケーキをひとつだけ買うのはなんだか気がひけたが、焼き菓子もシャルキュトリーもすべて売り切れていて、本当にエクレアだけがぽつんと残っている。型崩れしそうなお菓子ではないし、簡単な袋でいいですよ、と言ったのだが、きちんと箱に収めてくれて申し訳ない気分。

いそいそと持ち帰り、少し時間を置いてから、コーヒーを淹れてエクレアを頬張った。
ふたくちで食べ終えてしまいそうな、小さなお菓子の持つその威力たるや。その日の検査の疲れだけではない、どうしようもない不安や、張り詰めた緊張も溶かしてくれるようで、なんだか救われた気がした。
ホッとして、気づいたら声をあげて泣いていた。




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