留年三勇士

 留年という言葉は人生の道を踏み外した証であると私は二十年間信じていた。
まさか自分がそうなるとは思っていなかったが、周りを見渡せば同じような境遇の人間がたくさんいた。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」を身をもって経験したのだ。

 類は友を呼び、旧友2人が私と同じ時期に留年が決定した。
1番最初に留年が決まったのは私である。交換留学を決意し、就活との折り合いを考えもう一年在学することにしたのだ。
周囲の反応は「おめでとう」だった。
「留学しての留年は将来への投資だ」と言ってくれる友人が多かったが私は複雑だった。一年余計に在学することによって出費額は増えてしまい、そのことに関して親はあまり快く思っていないようだった。学費に関しては正当な理由あっての休学なので在学費のみとなり、一年間の学費が約70%カットとなった。さらに給付型の奨学金を手に入れ、支出はある程度抑えられた。

 次に留年が決まったのは友人Kである。
私が留学中、あまりにも暇で彼の誕生日にメッセージを送った時だった。一日遅れでお礼の返信が来てそのついでに「もう一年大学いるからよろしく」と来た。サプライズされた気分だった。
曰く「単位習得が大変で、しかも就活の第一志望に落ちたから作戦練り直す」と彼らしい回答が来た。
一時帰国して仲間内で会うともうすでにその話題でいっぱいだった。面接会場に行く途中で池にダイブしそのまま帰宅したり等、彼の様々な武勇伝が話題になり、笑いの嵐だった。
その時わかったのだが、彼が留年を決めたのをいち早く伝えたのは彼が長年慕っていた共通の友人ではなく、私だった。

 最後の友人Eはある意味本星である。
無事内定をもらい、最後の春休みを満喫していたある日、落単して卒業が不可能になった。
人生を賭けて笑いを届けてくれた英雄であろう。
二日酔いも冷めない土曜日の朝、一枚のスクショが届いた。その画像は卒業が不可能であることを知らせる成績表だった。
ことの発端はとある雪の日。天候により遅延が発生し、彼が学生生活最後のテストに遅刻したことから始まる。
「遅れていったからもう良いかなって思った。」
「日を改めて追試受けようと思った。」

しかし現実は残酷で大学側は「いかなる理由も受け付けない。何故なら追試申請は試験当日のみ受け付けるから。」とのことだったのだ。
何をしようにも全ては後の祭りだった。
そんな友人にケバブを奢り、頬張りながら私は言った。
「就職祝い二回されるの?」
彼は珍しく「馬鹿なこと言うんじゃない」と涙目で呟いた。

 私がこの留年三勇士に縁を感じたのは成人の日を祝った仲であると言うことである。
ある1人は群れから余り、ある1人は理由もなく参加し、もう1人はそもそも成人式に赴いていなかった。なのでジャージだった。
もしかしたらその時、三人は留年することが決まったのかもしれない。人の目には見えない因果の関係がこの時三人に発生したのだろう。
もしそうなら、友人Eには申し訳ないことをした。

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