女性_悲しみ

哀しい存在 ~忘れ去られしものの声~

この投稿は写真を元に妄想した、架空のストーリーです。


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「どうしてこんなことになってしまったの?」
私は声にならない声を上げた。

まさかこんな形に終わりが来るなんて。こんな寂しいところに、たった一人で置き去りにされるなんて。
出会った頃には、いや、彼と出会って共に過ごすようになってからも、一度だってこんなことが起こるなんて想像したことはなかった。

「用がなくなったらポイ。そういうもんだよ」
と言う人もあるかもしれない。
だけど、彼は、彼だけはそんな人じゃないと信じていたのだ。用がなくなったらあっさり捨ててしまう、なんて非情なことを、彼はする人ではないと強く信じていた。
だが、現実はこれだ。今のこの私の悲しい状況。これが現実なんだ。

いや。でも。
今日の彼はいつもの彼ではなかった。これは私の思い違いではない。明らかにいつもの彼とは違ったのだ。

彼はとても温厚な人で、怒ったところなど見たことがなかった。
もちろん人間なんだから怒りの感情もあるだろう。だけど、彼は些細なことで苛立つような心の狭い男ではなかった。
なのに、今日の彼はかなり苛立っていたのだ。

仕事を終えて、いつものように私を引き連れて電車に乗った時はまだ普段と変わった様子はなかった。私はいつものように彼と一緒に電車に揺られ、彼の部屋に行くものだと思っていた。
が、いつもの駅で降り、改札を抜け、彼が向かったのは彼の部屋ではなかった。

「ねえ、どこ行くの?」
なんとなく胸騒ぎを覚えた私は彼の横顔を見上げて言った。しかし彼はそれには応えず、黙々と、そしていつもより早足で、歩き続けた。

「まったくあのババア・・・」
急ぎ足の彼が小さく、しかし鋭い声で呟いた。
「人が急いでるっていうのに。ICカードかざすくらいのこと、誰だって簡単に出来るだろうが。モタモタしやがって」
いつもより早足のせいか少し呼吸を乱しながら、彼はなおも悪態をつく。
どうやら駅の自動改札でモタモタしていた中年女性のことを言っているらしかった。

これまで私は、彼の口から『ババア』などという言葉を聞いたことはなかった。
彼はいつでも穏やかで紳士的で、誰が見ても物腰の柔らかい好青年だったのだ。
その好青年ぶりが私を嫉妬に駆り立てたこともあった。何せ誰にでも優しいのだから。

その彼が自動改札でモタモタしたぐらいで『ババア』だなんて。これは明らかに“いつもの彼”ではない。
いや、もしかしたら。これが彼の本来の姿なのか。私が彼の本質を見ていなかっただけなのか。
いや。いやいやいや。違う。そんな風には思いたくない。そんなはずはない。彼は穏やかで優しい人のはずだ。



私と彼が出会ったのは半年ほど前のことだ。
そう、まだ半年。だけど、彼とはとても濃厚な時間を過ごした。

私達の出会いは彼の行きつけ(と言ってもいいだろう)の店だった。その頃の私はいつもその店にいた。

ある夏の夕暮れ、いつものように所在なげに私が佇んでいるところに彼が現れた。
「ずっと探してた。僕にピッタリだ・・・」
初対面の私に、彼は臆面もなくそう言った。彼は運命とも言えるような繋がりを私に感じたのだろう。もちろん私も彼には『他の人とは違う何か』を感じた。

店員と二言三言言葉を交わした後、彼は私を連れて店を出た。その後、私はごく自然な流れで彼の部屋に行った。

そこから私達は片時も離れず、いつも一緒に過ごした。そう。そのくらい彼は私のことを気に入っていたのだ。

ところが今は私一人だ。
彼の姿はもうどこにも見えない。
私は一人、見たことのない、来たことのない場所に置いて。行かれてしまったのだ。


ここは一体どこなのだろう。彼の部屋からは遠いのだろうか。
わからない。私には何もわからない。私は彼と彼の周辺の世界しか知らないのだ。
心細くて仕方ない。
彼に置き去りにされたことに加え、私の知らない場所であることが私の不安を増幅させる。


それにしても何なのだろう。さっきから聞こえるこの声は。人の体温を感じさせない、冷たい女の声が聞こえる。
「ご利用ありがとうございます」
「ご希望のサービスのボタンを押してください」
「通帳またはカードをお入れください」
女は冷たい声で喋り続けている。

わからないことは他にもある。
私に刻まれた、この文字は何だろう。彼からのメッセージ?別れの言葉?いや、そのどれとも違うような気がする。
私の体に乱暴に書き殴られた『¥2,041』は一体何を意味するのか。
私にはまったくわからないが、さっきまでの彼にとっては重要な言葉なのだろう。
さっきここに辿り着いた時、彼はこう呟いていた。
「“2041”か。書き留めておいて良かった」
その後、件の冷たい女の声が続き、彼は安堵したようにこう言った。
「これでOKだ。良かった。間に合った」
その直後、彼は私に触れることなく立ち去ったのだ。

「待って!ねえ待っててば!」
立ち去ろうとする彼の後ろ姿に、私は何度も叫んだ。しかし私の声は彼の耳には届かなかった。
いや、そもそも私には『声』がないのだが。


彼の姿が完全に視界から消えた後、私は店にいた頃に聞かされた先輩の言葉を思い出した。
「あたし達はねぇ、用がなくなったら捨てられるのよ。え?寂しい?あははは。バカね。しょうがないじゃない。そういう運命なんだからさぁ」

そういう運命。
そうなのかもしれない。だけど・・・。

用がなくなったらポイだなんてあまりにも哀しい。


哀しい運命を背負った、私の名前は付箋。
誰とも永遠の時間を過ごすことは出来ない哀しい存在。

(了)

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