「ターコイズフリンジ」②

 午後四時過ぎの公園。人は少なく、子供の声もごく僅かだった。
 帰りに寄り道をするのは以前三ヶ月ほど付き合った彼氏がいた時くらいのものだった。彼はすでに別の女子生徒と交際を始めていた。
「ちょうど一年だけ? でも今の時期ってことは少し遅めに入ったんだ」
 話題は彩月の部活動だった。
「はい。やっぱり部活やった方がいいって友達に言われて」
「その心は?」粘り気のある有志の言い方に、彩月は少しだけ嫌な顔をした。
「高校の面接で言えるとか、体力つけておいて損は無いとか、あとは思い出づくりとも言われました。まあ気持ちは分かるんですけど、私は別に大丈夫だったかなって」
 有志はすぐに自身の意見を述べた。
「気持ちは分かるって前置く人ってさ、大体あんま考えてないよね」
 彩月は言い返そうとしたが、特に良い武器がなかったので止めた。
「まあでもさ、思い詰めて辞めたわけじゃないのは良かった。結構ドライな感じするね、如月って」
 ブランコの上に立ったまま、金属の軋む音でリズムを刻む有志が言った。ベンチに座る彩月には彼が子供のように見え、大人のように聞こえた。
 それに対抗するべく彩月は少しの沈黙を選んだ。彼女の思い描く大人は寡黙だった。
「如月ってやめてください」
「ん、なんで」
「彩月にしてください」
 綺麗に揃えられた前髪の底辺に黒い両の瞳が近づく。その上目遣いは異性を落とす為によく効果を発揮する。
「ふーん。それって告白? そういうとこは情熱的なんだ。いいよ、彩月。今からカレカノな」
 彩月自身でも遠回しに思ったが、成功してしまった。だが変わった方向からの成功に彩月自身動揺した。ひとまず、こうして二人は付き合うこととなった。

 彩月はしばしば友人の恋愛話を聞いた。というより聞かされた。整った顔に高い腰の位置、長く滑らかな髪をした彩月は、しばしば女子の羨望の的として扱われた。
「でさ、どう思う」髪の色素が薄く、茶色い頭をした女子生徒が訊ねた。
「そうだね、中学なんてまだ男子は子供なんだし、話半分で聞いてあげればいいんじゃない」
 今日は主に交際相手の愚痴だった。初めは部活にばかり打ち込み、彼女の扱いがぞんざいになっていることへの不満。次は性的な好奇心が見え隠れしていることへの不満だった。彼氏が考えもなしに迫ってくるのが低脳だと唾棄されていた。自分のいないところで集団に非難されるほど不憫なことはない。彩月はそう思いながら聞いていた。
「いつも雑な態度のくせに、急に興奮しだすと鼻の穴広げるのやめてほしい」
「あは。可愛いじゃん」
 子供をあしらう母親の姿が想像できた。きっと、女性はいつでもその準備が出来ているのだ。心の成長速度をうんと上げない限り、男が女に追いつくことは死ぬまでない。
「そっちはいいよね。大人で」右横の机にもたれ掛かっているそばかすの女子生徒が言った。
「え?」
「有志先輩よ。あんなイケメンよくいけたね」
 有志は表だった知名度はなかったものの、影ながら評価されていたようだった。運動が抜群に出来るわけではなかったが平均してそつなくこなし、肝心の空手は中の上といったところ。普段何をするにも気だるそうな振る舞いの男だったが、芯のある性格が知られていた。それが同級生の間だけだったのは以前の話。彩月と付き合い始めてからは友人らのリサーチもあり、彼の人間性が少しずつ下級生にも露呈していった。
「うーん。でも、なんで付き合ったんだろう」
 それは彩月が以前から思っていることだった。
「えー、なにそれ」
 なぜ有志と付き合い始めたのか、なぜ有志が自分と付き合うことにしたのか、うまく飲み込めずにいた。下校時は決まって早く終礼のあった方が迎えにいく。彩月が三年の教室前に来た時、いつも有志は誰かと話していた。
「彩月はさ、先輩のどこ好きなのよ」
 周囲から好奇の目を向けられる。
 有志の好きなところ。深く考えたことはなかった。たしかに子供のように無邪気に笑うし、面倒くさがりな挙動に反して逞しい体をしているためギャップがあった。しかし一番は内面のように思える。女性が年上に惹かれるのは、精神的な余裕に魅力を感じるからだ。中学という箱の中で、一際それを放っていたのが有志だった。少なくとも彩月は彼の達観した物言いにそう感じていた。

 慌ただしい一日が終わり、有志と二人で残って話した。人が段々とまばらになっていく教室はなんだか見晴らしが良く、そこでの時間経過は彩月にとってかけがえの無いないものの一つだった。
 教師の目はなく、学年の違う者同士が居ることにとやかく言う生徒はいなかった。二人の間柄を茶化す声が時たまある程度だった。
 話題がひと段落ついたほんの一瞬の隙間、有志は目を大きく見開いた。
「やべ。理科室呼ばれてたんだった」
「嘘でしょ」
「俺だけ課題出してないのが二回続いちゃってさ」苦笑を浮かべながら有志が言った。
「信じらんない」
 彩月としても意外だった。有志はそんなくだらないミスをするタイプとは思わなかった。
「ちなみに弁解は?」彩月が姑のような口調で促した。
「教科書失くしちゃったんだよ。んで頼んだんだけど、まだ届かずに二つのバツがついちった」有志に悪びれる様子はない。
「一見悪くなさそうだけど失くした有志が悪い」
「きっつー」
 期待した彼女の擁護は得られなかった。彩月に一刀両断された有志は項垂れたまま教室を出ていった。

 誰も居ない理科室は特別感があった。危険物を取り扱う場所であり、授業以外にこれといって立ち寄る用のない場所だ。奥には先生の私室が別にある。そこでは有志が説教をされている最中だった。
 大きな机の上、自分の腕でつくった枕に顔を伏せている彩月。右を向く形で捻られた首が窮屈に感じる。視線の先には透明なショーケースに行儀良く並べられたガラス容器や薬品の数々があった。危険なものが規則的に並ぶ様には、収容された監獄で整列している凶悪犯罪者のような憐れさがあった。
 セーラー服が汗ばんでいく感覚がある。実際のところは違うのだが、肌や服が顔周辺に密着すると空気との距離が遠くなり、熱に侵食されていく気がした。
「失礼しました」
 扉を開け、くるりと体を回転させ、挨拶をして退室する有志。
「有志」
 彩月の声が有志のうなじに降りかかった。振り返る彼は口角を上げていた。喜んでいるのがわかった。
「なんだ、まだ帰ってなかったのかよ」

 自転車後方の荷台に乗り、有志の腰に手を回す彩月。広い肩幅に安心した。有志の背中は男らしく角張っていた。それでいて怖すぎなかった。
 風避けになった背中から、生き延びた残り物が体に触れる。真っ直ぐな長髪を靡かせながら、彼が女子生徒と話していた姿を思い出す。
 先日プリクラを撮った時のことだ。有志はこういうことに疎そうだなと高を括っていた彩月。しかし思いの外、手慣れた様子でタッチパネルを操作する有志。その仕草のひとつひとつに過去の女の影が見え隠れするのが腹立たしかった。
 男女ともに話しかけられている光景をよく見るので、ずっとその内容を聞きたいと思っていた。
「いっつも放課後さ、何話してんの。相手代わる代わるだけど」
 勇気を振り絞った。案の定、呑気な返事が返ってきた。頭で理解はしていても、音として直に耳にするのは少しこたえた。
「え、なに嫉妬? 話聞いてるだけだよ」
 抑揚から余裕が感じられるのが恨めしかった。彩月は彼女として威厳を取り戻す必要があった。
「有志ってさ、なんでも人の相談乗るよね」自分の位置を再確認するような聞き方に、我ながら女々しい奴だな、と彩月は思った。
「ん? それはお前もだろ」
 個人の悩みを聞く有志に対し、不特定多数を相手取る彩月。有志だってその光景は目にしたことがあった。
「いや、自分で言うのもなんだけど、あたしはほら、右から左にさ」彩月は口ごもる自分が情けなくなった。
「なにそれウケる。俺さ、あんま落ち込んだりしないんだよ。短い人生、嫌な気持ちになる時間ってのを作りたくなくて。でもそれを他人に強要はしないぜ? だから聞けるもんは聞く」
 太陽のような快活さが目に余った。
「つっよ。メンタル最強じゃん。今までの人生で本当に嫌なことがなかった人間の言うことだね」憎まれ口と思われようが構わなかった。
 有志は顔から表情を無くし、無機質な後頭部のまま語りかけた。雰囲気が一変したのは彩月にもわかった。
「たまにさ、彩月は下手なこと言うよね」
「え?」彩月は反射的に言葉を発した。ほとんど喫驚ゆえの音だった。
「忘れて。ま、とにかく俺は『つらいこと請負人』なわけです」
 有志の澱みない言葉が痛かった。
「馬鹿みたい」
「馬鹿じゃないよ」
 坂道に差し掛かった。下りに任せて有志はペダルから足を離し、真っ直ぐ左右に広げる。車輪の軽い音が一定に聞こえ、速度を上げていった。
 風が一層の涼しさを増す。夏と秋の境目、残暑が触覚を鈍らせていく。淡い夢のような空間の中で、横方向に流れていく情景を、追うことなく眺めた。水彩画の如く滲んで見えた。世界の輪郭があやふやになっていくことを受け入れ、拒もうとはしなかった。
 それから少し経った十月三日。百合の命日に彩月が辛うじて正気を保っていられたのは有志の存在が大きかった。



ありがとうございます。 作家になるための糧にさせていただきます。必ず大成してみせます。後悔はさせません。