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「哲学者」という呼び名について〜短い省察

「哲学者」という呼び名をどのような人たちに与えるか?この問いは、多くの人にとってさして重要な問題でも関心のあることでもないと思います。もし問題があるとしたら、目の前に「哲学者」と呼ばれることに自負を持つ人がいて、その人の気分を害したくないと思う時か、自分自身で「哲学者」というあり方を探りながら、それを目指す時くらいでしょう。

私はどちらかというと後者の人間なので、現在生きる人々に対して(その人がどれほど有名で、「哲学者」という名を一般的に獲得していたとしても)「哲学者」と呼ぶことはあまりない気がします。

これに対して、なぜか?と納得できる説明は今のところないのですが、少なくとも「哲学者」という名称に特別な意義を感じているのは間違いないでしょう。ある人が「哲学者が尊称である」と述べていましたが、私自身もどうもそのように捉えているようです。

その上で(つまり、哲学者が尊称であるということを踏まえた上で)私は、「哲学者」という呼び名を、もっと広い知的活動に解放する立場を考えてみたいと思いました。つまり、既存の知識を用いつつも新しい知を生み出そうとする活動をおこなう人々、すべてを「哲学者」と呼ぼう、それが知を用いて現在を必死に生きる人々に対する敬意ではないか?と。

この立場では、どんな卑近な知的活動に従事する人対しても「哲学者」という名が与えられます。パズルゲームのあたらしい解き方を考えることや、日々の暮らしの時短術を考えること、そして、どうしたらお金を稼ぐことができるかについて考えること、こういったことでさえも、知的活動に従事している以上、その人は「哲学者」と呼ばれます。

もちろん、これには多くのデメリットがあります。このようにして、多くの人々を「哲学者」と呼ぶことで、この名で呼ばれることによって生ずる特別な価値は失われるでしょう。そして、「哲学者」という名で呼ばれてきた人たちが、名もなき新たな「哲学者」たちによって、その地位を貶められてしまうかもしれません。なにより、「哲学」と呼んでこなかったような「卑俗で、醜悪な」悪知恵のようなものを働かせる者でさえ、「哲学者」と呼ばれる可能性までをも含んでいます。

これらデメリットは、「「哲学者」というあり方を、価値ある一握りの優れた人にしか与えてはならない」と言うような人たちには、確かに見逃せないのかもしれません。私自身もそう思う反面、あらゆる知恵に対する敬意と、知的努力をする誰もが「哲学者」と呼ばれることで生じる特殊な自己意識にこそ、注意を払うのが善いのではないか、とも思います。

知的な努力をする誰もが「哲学者」となる以上、努力の末得られたどんな知も優れたものであり、それは探求の対象です。そして、「哲学者」として呼ばれることで生じる紐帯が、一つの関心では思っても見なかったような他の知を結びつけることになるかもしれません。

この提案を受け入れる時、私自身でもかなり多くの人を「哲学者」と呼び、それ以前よりもっと多様な知に敬意を払い、探求する必要が出てくるでしょう。逆に、これまで「哲学者」と呼ばれるはずもなかった人たちは、この呼称をどのように受け入れるのか?これは想像と期待でしかありませんが、自然に「哲学者ってなんですか?」という問いを発し、「哲学」という探求の入口に到達するかもしれません。

さて、以上を踏まえた上で、皆さんはどんな人を「哲学者」と呼びますか?

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