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広告批判と向き合う : 『現代アートの哲学』11章をもとに①〜読書記録

皆様、鹿人(仮)です。

以前、広告の異常さ、というテーマで次の記事を書きました。

この記事では、広告という、ある意味で不自然に魅惑的で、あらゆる欲求を刺激しつつもどこか美しさを感じさせるものについて、個人的な感情めいたものを吐露しました。今回は少し視点を変えて、これが学術的にどのように捉えられるかを見ていきたいと思います。(まあ、『現代アートの哲学』を読んでいたら、たまたまそういうテーマで論じられていたので、前に記事を書いたのもあり、少し掘り下げてみようと思っただけなんですが…。)

参考にする本は、先程も触れましたが、こちら!

こちら、アート(芸術)の歴史や哲学的な見解から、現代のアートを考える上で様々な視点をもらえる名著(だと個人的には思います)です。こちらの11章では、キッチュ(寄生の美学:詳しくは後ほど説明します。)の文脈で広告批判がなされています。本記事では、これをベースに広告について考えていきます。

それでは、始めていきましょう!

広告批判の骨格

最初に、おわかりかと思うのですが、「広告批判」といっても、広告がだめだ、一切廃止せよ!といっているわけではありません。その隠された内実に迫ることで、反省的に考えるということがメインのテーマです。もちろんこれは、『現代アートの哲学』においても同じです。

しかしながら、今から見る文調は否定的なニュアンスもおおいに感じ取れるので、一応注意書きです。

羨望→不満を喚起する機能

では、実際にその骨格となる部分を引用でみていきます。

広告の目的は、〈見るもの=購買者(消費者)〉に、その社会がしているほんらいの状態に自分がいたっていないという、自分自身の「現在=現実」の生活に対する不満をだかせることにある。 広告はこうして、恒常的なアイデンティティーの危機をつくりだし、これを羨望において増幅する

p.191

ここでは、広告の魅力を呼び起こさせる機能について述べられています。広告は、消費者に「その社会がしているほんらいの状態に自分がいたっていないという、自分自身の「現在=現実」の生活に対する不満をだかせる」ことが目的であり、これは「恒常的なアイデンティティーの危機」を生み出し、羨望によって増幅させることで、購買意欲を湧き立たせることになります。

まず、この機能について、とりあえず「羨望→不満を喚起する機能」と呼んでおきます。この機能については詳しくのちほど考えます。

羨望=退行=ねたみ説

次に、この羨望自体についても見ていきます。

ところで、広告がつくりだす欲望としての羨望・嫉妬というものは、社会関係からすれば、一種の退行である。生後八月以後の幼児に見られる、いわゆる「鏡像段階」において、ひとははじめて自分に気づく。 だがなおかれは、現実の自分と親のなかの自分の像、また他者の像とをはっきり区別しない。ルロポンティによれば、幼児におけるこの「自己と他人との混乱」の結果生じる感情的状況のひとつが、ねたみである。〈ねたむひと〉とは、自分の見ているものになろうとするひとのことである

p.191

この、羨望が一種の退行であること、そしてそれが「ねたみ」であるということ、この部分をとらえ「羨望=退行=ねたみ説」と読んでおきましょう。

この2つから、広告が訴えかけるものが「それぞれ自立した近代的な個が対峙する対話ではなく、未分化なアイデンティテーへの退行において、モデルを自分に重ねあわせ同調しようとする、シミュレーションの身振りである」(p.192)ことが導出されます。

慢性的な不満足

しかしながら、著者の西村氏は、広告文化の成熟それ自体は「ゆたかさの指標」であり、「広告が多彩な言説を弄するのは、モノがあふれ、商品に差異がない」(p.194)からだ、と述べます。そして、この広告による欲望の刺激は「キッシュほんらいの安逸さの中で醸成される慢性的なものとして」、良くも悪くも、私たちの生活を取り巻く「環境であり、雰囲気であり、根本気分」であることが述べられます。

この著書は1995年に刊行されたものですが、2023年現在の私たちにも通底するところがあるでしょう。たしかに、普段の生活で、私たちはたくさんの欲求に囲まれ、そしてその多様な欲求にさらされた結果、自己のアイデンティティは希薄なものになり、何を目指すべきか、そして何が本当に「よい」ものなのかわからなくなってきている気がします。

以上の批判の骨格を見る限りで、広告文化の織りなす気分は、良くも悪くも、私たちを「本来的な」あり方から開放し、「あこがれ」によって、常に何か異なるものへ変えさせようとしていると、考えることができそうです。


続きは後日!



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